エディルネ事件
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1697年から大宰相に就任してカルロヴィッツ条約に調印したキョプリュリュ家出身のキョプリュリュ・ヒュセイン・パシャが戦後構造改革に乗り出した。ムスタファは17世紀以降飾りものであったスルタンの地位を改めようとし、ティマール制、オスマン帝国の騎兵、そして世襲されたイェニチェリを改革しようとした。しかし、ムスタファ2世の側近でイスラーム長老(シェイヒュルイスラーム)のフェイズッラー・エフェンディとウラマーら保守派の反発に遭い1702年に辞任、1703年に首都イスタンブールからエディルネに移り住むとフェイズッラー中心の側近政治に反感を抱いたイェニチェリと商工業者らの間で不満が高まった。1703年、オスマン帝国はグルジアへ遠征する。当初は優勢だったが、グルジアに派遣される予定だった200名の騎士らが給料の未払いを理由にグルジア遠征を拒否して、イスタンブールを出てエディルネでムスタファへと上奏、これにムスタファ2世に不満なイェニチェリ、高官、ウラマー、商人や職人らも加わり、 6万人もの大集団となり、フェイズッラーの罷免を求めた。さらにはエディルネの守備兵までもがそれに同調してしまったため、フェイッズラーは罷免され、その後殺害されムスタファ2世は退位、弟のアフメト3世に帝位を譲り幽閉され、間もなく死去。
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