エディルネの獲得
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 06:40 UTC 版)
アンカラを奪還した後にビザンツ帝国(東ローマ帝国)が領有するアドリアノープル(エディルネ)攻略の準備に取り掛かり、援軍を阻止するために周辺の城を攻撃する。エウレノス・ベイはコモティニ(ギュミュルジネ)とディディモティホ(英語版)(ディメトカ)、ハジ・イル・ベイはケシャン(英語版)とキュプセラ(イプサラ(英語版))、アレクサンドルーポリ(デデアーチ)を占領した。 1362年7月にアドリアノープル攻略に派遣したララ・シャヒーン・パシャがサズルデレの戦いでビザンツ軍に勝利し、1363年にアドリアノープルはオスマン帝国の支配下に入る。さらに、ララ・シャヒーン・パシャによって、フィリッポポリス(フィリベ、プロヴディフ)、サグラ、セレスが制圧され、トラキア地方はオスマンの手に帰した。特に食糧の補給地点、エディルネを守る前線基地、バルカン山脈の北から侵入する敵軍の監視地点としての役割を有するフィリッポポリスを獲得した意義は大きく、要所を占領したオスマン軍は進軍を一時停止し、軍備を整えた。 セルビアに逃亡したフィリッポポリスの城主はセルビアにオスマンへの攻撃を要請し、教皇ウルバヌス5世は全キリスト教徒に反オスマンの十字軍を呼びかけた。ハンガリー、ブルガリア、セルビア、ワラキア、ボスニアからなる連合軍がエディルネに進軍し、ハジ・イル・ベイが偵察に向かった。ハジ・イル・ベイは数で優位に立つバルカン連合軍の油断に乗じて奇襲をかけた(マリツァの戦い (1364年)(英語版))。奇襲を受けたバルカン連合軍は混乱に陥り、逃げようとした者の多くがマリツァ川で溺死した。1364年のマリツァ河畔での戦勝は、トルコ語で「セルビア総崩れ」を意味する「スルプ・スンドゥウ」の戦いの名前で呼ばれる。 ムラトは敵国の奇襲に対応するため、1366年にエディルネをバルカン半島での都とした。1453年にコンスタンティノープル(イスタンブール)を占領するまでの間、エディルネはアナトリアのブルサと並ぶオスマン皇帝の居住地とされる。
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