改革と外交革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 17:00 UTC 版)
詳細は「外交革命」を参照 シュレージエンを奪還する目的で、ハウクヴィッツを登用しての内政改革や、ダウン将軍による軍改革を行う。 そして、外交面においてはカウニッツを登用してフランスに接近する。マクシミリアン1世以来長らく、ハプスブルク家とフランスとの間で抗争が続いていた。しかし、先の戦争で敵はフランスではなくプロイセンであることは明白で、英国との利害関係も一致していなかった。1749年3月7日の御前会議で、カウニッツはこうした現状分析の後、同盟国を英国からフランスへ変更することを奏上する。皇帝フランツや重臣たちは驚愕を隠せなかったが、マリア・テレジアはこれを支持する。会議以前に、カウニッツと討議しており、彼女が提唱した案がより洗練されていた。 1750年10月、女帝から全権を委任されたカウニッツはフランスへ向かう。マリア・テレジアは個人的にフランスの閨閥政治を嫌悪していたが、多額の資金を使ってフランスに侮られぬよう装い、ポンパドゥール夫人を通じ国王ルイ15世を懐柔した。また、同じくフリードリヒ2世を嫌悪するロシア帝国のエリザヴェータ女帝とも、難なく交渉はまとまった。しかし、ウィーンとサンクトペテルブルクの中立地としてザクセンのドレスデンで交渉したことから、プロイセン側もオーストリアとロシアの接近を察知した。 先手を打ったのはプロイセンで、1756年1月16日、英国と第4次ウェストミンスター条約を結ぶ。5月1日、ヴェルサイユ条約をもってオーストリアとフランスが遂に同盟を結ぶ。こうして作られたプロイセン包囲網を、マリア・テレジア、エリザヴェータ女帝、ポンパドゥール夫人にちなみ「3枚のペチコート作戦」と呼ぶこともある。マリア・テレジアはポンパドゥール夫人に深く感謝し、高価な贈り物をしたが、矜持から感謝状は書かなかった。またこれに伴い、生後間もないマリア・アントニア(マリー・アントワネット)の婚約も内定した。
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