指導者・研究者として
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野口が指導者となった頃は日本語で読める陸上競技の指導書はほとんどなく、松本中ではマーフィーの本を片手に、指導者と選手を兼ねて日が暮れるまで生徒と練習した。アントワープオリンピックを経験した後は国際的感覚を身に付け、以前に増して物腰が柔らかくなり、観察の視野が広がった。研究成果がまとまると、すぐに本や論文にして発表することで選手の便宜を図り、折を見ては実地指導に出かけ日本中を飛び回り、野口の選手引退後に現れた日本の陸上競技選手はみな直接間接に野口の薫陶を受けたと言われる。陸上競技講習会で初めて出会った織田幹雄とは終生交流があり、織田は野口に激励され続けていた。野口はアントワープオリンピックから数えて17年後に日本の陸上競技が国際水準に達すると予言し、この予言を達成すべく選手育成に努め、ちょうど17年後の1936年ベルリンオリンピックで日本の跳躍選手が多数メダル獲得や上位入賞を果たし、的中させた。 野口の1歳年上である大谷武一とは互いに影響し合うライバル関係にあった。大谷が主に「学者」として名を馳せたのに対して、野口はスポーツマン、スポーツリーダー、スポーツ評論家として活躍した。野口と大谷の出会いは、野口が東京高師に入学した1911年(明治44年)の新入生歓迎会の席で、大谷が上級生代表として激励の言葉を送ったときであった。野口は大谷の葬儀において友人総代として弔辞を読んでいる。河野一郎とは、野口が体協理事を退任する契機となる13校問題で激しく争った間柄であったが、紫綬褒章や勲三等瑞宝章の受章には河野の陰の力があったと伝わる。 自分に厳しく責任感が強い人物であり、任務遂行のためには「執念」とも言えるほどの努力を惜しまず、何人にも妥協を許さなかった。安住の地にあぐらをかくようなことはせず、常に新しいものを求めて前進を続けたが、「野心家」という言葉は似合わなかった。体育学の教員には自らを律して真剣に学問に取り組むよう諭し、自身の講義に15分以上遅刻した学生を教室に入れなかったという。野口に師事しようとする者は誰でも受け入れる寛大な性格で、指導者としては極めて穏やかであったと織田幹雄は述懐しており、うまくできなくても悪く言うことはなく、「もう一度やってみたまえ」と優しく声をかけた。こうしたことから、一般の学生からは「スポーツ選手には温情を示すが、一般学生には冷たい」と評されることがあったが、教え子の今村嘉雄は「見当外れの評」と述べている。スポーツ社会学者の森川貞夫は、野口が戦前・戦中に急進的な日本主義スポーツ論を展開した東京高師出身者の代表であるとし、戦後反省や戦争責任の自己批判をすることなく、戦後も体育・スポーツ界に君臨したことを批判している。 浅川正一は野口を禅僧にたとえた。穏やかに漂うスポーツマンシップと行政的手腕を持った野口であったからこそ、体協で嘉納治五郎と岸清一の2代にわたって会長を補佐できた。嘉納会長時代の体協は、大会を開いても入場料を徴収するという発想がなかったため経済的に困窮しており、野口は頻繁に商人に追いすがられた。そんな野口も体育を侮辱する者には烈火の如く怒り、東京高師の教授会の席で平然と体育を侮辱した教授に対して「体育を侮辱するなら吾等の宝刀を抜く」と言って椅子を振り上げた、というエピソードがある。これ以降、教授会で体育を侮辱するような発言は出なくなったという。 野口の研究成果は陸上競技に関するものが多いが、学校体育にも強い関心を寄せ、学習指導要領に掲げられた「社会性の育成」という体育の目標が現場でどう果たされているか、指導要領で水泳が正課に入っているが体育教師にその指導力が十分備わっているか、という研究課題を実際の学校現場に出かけて調査し、解明している。野口のスポーツ観は嘉納治五郎に通ずるものであり、スポーツを通して人間形成をするというものであった。このためレクリエーションスポーツではなく教育的スポーツを重視し、プロスポーツではなくアマチュアリズムを説き、運動選手は身体強壮、品行方正、学業忠実を遵守すべしとした。 また野口の陸上競技研究は、原理の研究批判というよりも、原理をいかに実践するかという研究であり、科学と実践の橋渡しをするものであった。野口のこの研究態度は東京教育大を経て筑波大学陸上競技研究室に引き継がれており、基礎科学とは異なる「まず実践」の精神が生きている。
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指導者・研究者として
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クリスチャン・ブラザーズ大学を卒業後、羽石はテネシー州メンフィス所在のメンフィス大学大学院に入学し、2005年に修士号を取得した。 同年マサチューセッツ州へ移り、ノーサンプトン所在のスミス大学大学院に入学。同時に同大女子サッカー部アシスタントコーチ、および州内クラブチームのウェスタン・ユナイテッドU-17およびU-18チームのヘッドコーチに就任し、サッカー選手・サッカー指導者・大学院生を掛け持ちする生活に入った。 2007年に2つ目の修士号を取得した羽石は、マサチューセッツ大学アマースト校大学院の博士課程に入学した。同時に同州サウス・ハドレー所在のマウント・ホリヨーク・カレッジに講師兼女子サッカー部監督として着任し、体育教育学を教える傍ら、サッカー部で指導に当たるようになった。2010年2月現在現在同大に在籍中である。
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