戦中の戦争協力などの活動
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「佐野文子」の記事における「戦中の戦争協力などの活動」の解説
時代が戦中に突入すると、佐野の活動は国防婦人会へと移った。1933年(昭和8年)には旭川国防婦人会の設立に尽力し、その副理事長に就任した。国防婦人会設立は北海道内では初、道庁所在地である札幌市に先駆けてのことであり、全国的に見ても大阪市に次いで2番目である。国防婦人会において強い指導力と行動力で頭角を現した佐野は、設立から5年後の1938年(昭和13年)には支部長に就任し、この年には会員数は1万人以上に達した。戦争が激しさを増す中、佐野は支部長として指導力を発揮し、軍との協力体制を強めつつ、多数の会員たちをまとめた。 これ以降の佐野は徐々に矯風会の活動から離れ、国防婦人会の活動に打ち込み、慰問袋の製作、出征兵士の送迎、兵士を送り出して留守となった家族の相談相手、国防訓練、傷病兵の慰問、戦死者たちの遺骨の出迎え、その遺族の慰問などに明け暮れた。後の養女の証言によれば、佐野はこうした活動のためにほとんど自宅におらず、泊まり込むことも頻繁にあったという。さらに佐野の活動は日本国内に留まらず、1940年(昭和15年)には北海道および樺太の国防婦人会会員約60万人の代表として満州の国防婦人会から招待され、同地を親善のために訪問した。同年にはノモンハンの激戦地で、兵士たちの慰問と戦死者の慰霊を行なった。佐野のこの活躍により、旭川国防婦人会は日本全国に知られるようになった。 その一方では、学資や生活に苦しむ学生たちに対し、私財を投げ打って援助を行なった。1930年(昭和5年)の雑誌『婦人新報』には、佐野が学生に援助を行なっていたらしい記述があるため、佐野のこの活動はそれ以前から行なっていたものと見られている。旭川市内では佐野の活動がよく知られており、苦学する学生側に対して学校側が佐野に相談するよう勧めることが多く、そうした学生たちに佐野は無条件で援助を行なっていた。そのため、亡き夫は後の生活が心配ないほどの豊かな財産を遺していたにも関わらず、そのほとんどをこの時期に使い果たしてしまった。 佐野に援助を受けた著名人の1人に、第10代NHK会長の前田義徳がいる。前田は小学生時代神童と呼ばれるほど明晰な頭脳の持ち主であったが、家庭の経済的な事情により上級学校への進学が困難であった。中学生時代の前田に出会った佐野は、事情を知って彼の援助に乗り出し、後の海外留学までの学資を援助し続けたのである。 1935年(昭和10年)には旭川市の功労者として藍綬褒章、翌1936年(昭和11年)には紺綬褒章を受章した。 1941年(昭和16年)には、当時の内閣総理大臣である東條英機の私設秘書に任命された。はっきりとした経緯は確認されていないが、東條の妻の東條かつ子が内閣総理大臣夫人として会合などで家を空けることが多く、東條は以前から妻に替って家を任せられる人材を求めていた。そんな折、東條が旭川を訪れた際に佐野を知り、その指導者としての才能や性格、さらに佐野の養女がすでに結婚していたことで佐野が容易に東條家に住み込みできることから、秘書に任命されたものと見られている。 戦中の軍の命令は絶対ということもあり、佐野は東京都世田谷区用賀の東條家に住み込み、秘書兼家庭教師として東條かつ子、その子供たち、孫たちとともに生活し、かつ子の手紙の代筆、子供の世話や教育、かつ子の相談相手など、様々な仕事をこなし、東條からも「佐野先生」と呼ばれた。この佐野の東條家での生活は、戦中当時の窮屈な生活の中、ほがらかな話題を人々に振りまいた。ただし首相の家とはいえ、国策に沿って食事は麦の混じった玄米であるなど、住居も生活も非常に質素だった。 東條家での生活は1944年(昭和19年)までの短期間であり、秘書の仕事を終えた佐野は旭川へ帰郷したが、その後も佐野は東條家と親交を続け、子供たちの成長を我が子のように喜んだ。戦後には東條はA級戦犯として死刑を言い渡されたが、佐野は東條から、責任がなく自由に発言できるようにという配慮により正式な秘書とはされていなかったため、何ら罰を受けることはなかった。その後も佐野は東條家の依頼により、かつ子の着物を売るなどして、残された東條家の家族を必死に守り抜き、食料の確保や家族の生命の安全に奔走した。人目を避けて暮すかつ子を、旭川へ招いてお忍びの旅行を楽しませたこともあった。 戦前には天皇の神格化を否定するキリスト教徒として、矯風会の活動や廃娼運動に精力的に取り組んでいた佐野が、戦中には戦争協力に傾いて愛国者ともいえる活動を行なったことは、佐野の生き方にとっては大きな転換といえる。これについては時代の流れの必然との声のほか、遠い戦地へ旅立つ兵士の見送り、遺族の慰問などといった戦中の活動は、戦前の社会運動と同様、苦しんでいる者を労わらずにいられない佐野の優しさから現れた行動に変わりないと見る向きもある。
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