戦中の聖蹟桜ヶ丘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 08:04 UTC 版)
1930年に大松山(現桜ヶ丘公園)の聖蹟記念館ができたころ、金比羅山(現桜ヶ丘住宅地)で健康的遊楽地「紫城」計画が持ち上がった。この計画はやがて精神面を重視した「太子堂」に変わり、軍国主義化とともに「奉仕会道場」へ推移した。いろは坂の階段下に掘抜き井戸を設けてポンプで揚水する水道設備(現多摩市営水道)が整備された。山上に練成用の潔斎(みそぎ)場も設置されて大学教授が指導していた。宿泊施設も整備された。奉仕会は本部を飯田橋に置く全国組織であったが、道場はここだけであった。理事長は陸軍皇道派の重鎮・荒木貞夫大将であった。陸海軍将官や大学教授や民間有力者が関係していて時々来場していた。 太平洋戦争末期、当地の山々には防空部隊が駐留し防空陣地が布設された。帝都東京を空襲から守るためだった。また、立川付近の航空基地や、連光寺周辺の火工廠(現米軍レクリエーション施設)を防衛するためでもあった。 金比羅山の奉仕会の道場は軍部に接収され、防空部隊が駐留した。奉仕会が整備していた水道付き宿泊施設は防空隊員の居住に転用された。1945年に入ると防空陣地が布設されて立入禁止になった。ここに陣取ったのは照空部隊と通信隊であった。寺峰付近にレーダーや照空灯を据え、浄水場付近で総合指揮と電気通信を行っていたようである。立入禁止であったので詳細は不明であるが、戦後掩蔽壕陣地の跡が多数見られた。 当地では連光寺の相談山にも防空陣地が布陣された。連光寺の山上には高射砲隊と照空隊が陣取った。レーダーで敵機の位置を察知して、離れた複数の照空灯で敵機を捕捉照射して、別の場所の高射砲が砲撃したのである。 東京空襲時には当地の上空が爆撃機の通路であった。マリアナから伊豆半島と富士山を目標に飛来した大型爆撃機B29の編隊は、当地の上空付近で向きを東に変えて帝都に向かった。逆に東の房総半島から侵入した編隊は当地上空を通って帰還していった。波状的に飛来する編隊と帰還する編隊がと上空で交差するのが見えた。B29の編隊は照空灯に照射されながら、高射砲弾の届かない高空を往来した。住民は無念と憎悪の目で見上げるしかなかった。 米軍空母艦載機は通常昼間に波状的に飛来した。低空を多摩川に沿って侵入し、関戸橋の付近で上昇して立川方面へ攻撃に向かった。低空飛行であったので、連光寺の山上から眺めれば敵機の背面が見えたと言う。 連光寺も爆撃された。爆弾数十発が山林に落下したが被害は殆ど無かった。防空陣地や火工廠は無事であった。米軍が火工廠の存在を知らないはずはないが、丘陵の山間の樹林の中に分散して潜む工場や倉庫の発見は容易でなかった。
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