戦中・戦後の大阪とは? わかりやすく解説

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戦中・戦後の大阪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/30 04:55 UTC 版)

杉道助」の記事における「戦中・戦後の大阪」の解説

当時経済界では営業税一部会議所経費充てていた。紡績などの大きな企業ほど納める額も多くなる。そこで、会議所経費抑制勉めようということで、らは1929年大阪商工会議所入所した。日中戦争が始まると、大阪では軍需産業興り会議所政府下請機関機能を負うようになっていった。理財部長や時局対策委員長などを務めたは、会頭安宅弥吉らと「満支視察団」を結成し、満韓支を回った1941年には副会頭となったが、国策の下、大阪商工会議所は堺や布施会議所合併し大阪商工経済会となり、更に政府下請機関としての色合い濃くなっていくことになる。また、大阪繊維統制会社大阪繊維製品配給」の社長に就任した一方で八木商店では1938年社長1941年には会長就任している。 終戦後1946年には大阪商工会議所第16代会頭就任した。またその頃戦時中の有力企業幹部公職追放審査委員会委員にも選任されている。大阪商工会議所会長になったの下で大阪経済立て直し始まった1953年、「大阪経済振興審議会」が結成され、ひとつの展望振興策示された。その結果1956年に府や市とともに組織した大阪経済振興連絡協議会」のもとで遂行された。新幹線新大阪駅位置決定大阪国際空港地下鉄網の整備阪神高速道路公団設立促進などの都市基盤整備重化学工業化などはその成果である。 1950年大阪初となる民間放送局・「新日本放送」(現・MBSメディアホールディングス)が設立されると、社長となったまた、貿易振興を図るために1951年に「海外市場調査会」(現・日本貿易振興機構)を設立し理事長となった。他にも、戦争中止になった大阪国見本市実現すべく、1952年に「日本国見本市委員会」が結成され委員長となる。見本市同年開かれ成功収めた1953年における会頭挨拶では、「大阪経済中心だとか、貿易産業中心地だといわれてきたが、いまは名目だけで実質ではない。これをもとの大阪もどそうではないか。これは単に関西という地域的感情とらわれていうのではない。大阪復興日本の経済発展国力回復寄与するところが大きいと信ずるからだ」と呼びかけた。 その一方で1956年鳩山一郎日ソ国交回復交渉全権顧問や、1959年赤間文三後任として大阪府知事推挙されるも、辞退している。だが、1961年第6次日韓会談政府代表になるなど、1964年死去するまで精力的に活動続けたまた、大正3年1914年)に設立され大阪貿易学院高等学校現在の学校法人大阪貿易学院開明中学校・高等学校)の再建に力を注ぎ昭和25年理事長校長就任した1959年藍綬褒章1964年11月には関西財界生存者として前例の無い勲一等瑞宝章賜り同年死に際しては正三位与えられた。 墓所山口県萩市家墓地にある。墓には「第八代。生涯松陰敬慕。『祖先の墓より大きくしない』と遺言残したと書かれている

※この「戦中・戦後の大阪」の解説は、「杉道助」の解説の一部です。
「戦中・戦後の大阪」を含む「杉道助」の記事については、「杉道助」の概要を参照ください。

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