戦中・戦後にかけての研究活動・社会活動
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「ミシェル・レリス」の記事における「戦中・戦後にかけての研究活動・社会活動」の解説
1943年1月にサブサハラ・アフリカの専門家として国立科学研究所 (CNRS) の研究員に任命され、1945年にコートジボワールおよび英領ゴールド・コースト(現ガーナ)で民族学の調査を行った。戦後も引き続き、アンティル諸島で調査を行い、ハイチでヴードゥー教の儀式に参加。マルティニークで詩人エメ・セゼールに出会い、以後、親交を深めることになった。また、民族学者クロード・レヴィ=ストロースに出会ったのもこの頃である。レヴィ=ストロースとレリスは、1951年にユネスコからの依頼で、反人種差別運動の一環として刊行される小冊子シリーズ「近代科学を前にした人種問題」の執筆を引き受け、レヴィ=ストロースは『人種と歴史』、レリスは『人種と文明』をそれぞれ発表した。このほか、心理学者、生物学者らがそれぞれの立場から執筆している。翌1952年にはアンティル諸島で2度目の調査を行うほか、12月には、世界平和評議会によってウィーンで開催された世界諸国民平和大会にサルトル、エルヴェ・バザン(フランス語版)らとともに参加した。 1955年10月に仏中友好協会の代表団の一員として、中国共産党が率いる国家として成立して間もない中国を訪れた。共産主義に期待を寄せていたレリスには特に重要な旅であり、5週間にわたる滞在中に毎日書き続けた日記は『中国日記』として1994年に没後出版された。 1960年9月、「アルジェリア戦争における不服従の権利に関する宣言」と題する「121人のマニフェスト(フランス語版)(宣言)」に署名。これは、哲学者フランシス・ジャンソンがアルジェリア独立運動を支援し、フランス軍隊からの脱走兵を援助するために作った地下組織「ジャンソン・グループ」の裁判の際に、これを支持する知識人121人が行った活動であり、サルトル、ボーヴォワール、ブルトン、トリスタン・ツァラのほか、歴史学者のピエール・ヴィダル=ナケ、哲学者のジャン=フランソワ・ルヴェル、作家のヴェルコール、フランソワーズ・サガン、マルグリット・デュラス、映画界からアラン・キュニー、アラン・レネ、シモーヌ・シニョレなども参加した。 国立科学研究所の研究主任として、1962年にブアケ(コートジボワール)で開催されたアフリカの宗教に関する会議、1966年にダカールで開催された黒人芸術に関するシンポジウム、1967年にハバナ(キューバ)で開催された文化会議などに参加。キューバではフィデル・カストロに会う機会を得た。また、1964年に日本でピカソ展が開催されたときには、5月から6月にかけて来日した。
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