戦中・戦後 - サルトル & ボーヴォワール 実存主義の拠点
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「カフェ・ド・フロール」の記事における「戦中・戦後 - サルトル & ボーヴォワール 実存主義の拠点」の解説
第二次世界大戦が勃発した1939年、ポール・ブーバル (1908-1988) がカフェ・ド・フロールを買い取った。パリの各区を舞台にした連作『新編パリの秘密』を発表したレオ・マレ(フランス語版)の第4作『サン=ジェルマン=デ=プレの夜』(邦題『サンジェルマン殺人狂騒曲』)に同店の主人として描かれる人物である。ブーバルは中南部アヴェロン県(オクシタニー地域圏)のサン=トゥラリー=ドルト(フランス語版)出身の両親のもとにパリ8区に生まれ、カフェ・ド・フロール買収前の1922年に同区にキャバレー「ブフ・シュル・ル・トワ(フランス語版)(屋根の上の牡牛)」を開店していた。店主はカフェの中央に大きな石炭ストーブを設置した。物資が不足し、すべて配給制であった戦時下で、ストーブのあるカフェに多くの作家が訪れ、何時間でも執筆し続けた。 この頃最初に常連となったのはシモーヌ・ド・ボーヴォワールであった。彼女は当時、処女作『招かれた女』を執筆しており、1943年にガリマール社から出版した。1941年に、兵役に服し、捕虜収容所に収容されたサルトルが病気のためにパリに戻ると、カフェはボーヴォワール、サルトルのほか、カミュ、レイモン・アロン、モーリス・メルロー=ポンティら実存主義哲学者の拠点となった。1943年2月に上演されたサルトルの『蠅』、6月に出版された『存在と無』は、その大半がカフェ・ド・フロールで書かれたものである。ただし、彼らはカフェ・ド・フロールと隣のドゥ・マゴを行き来し、ほとんど丸一日、カフェで過ごしていた。サルトルは、朝9時から正午まで執筆をして、昼食に出て午後2時に戻ると友人と夜8時まで議論し、夕食後は前もって予定を入れていた打ち合わせを行うといった日課であった。 ジャズが流行し、サン=ジェルマン=デ=プレに次々とジャズクラブが開店した。作家のボリス・ヴィアンは自らクラブで演奏し、サルトル、ボーヴォワールもミュージシャンと親しかった。カフェ・ド・フロールの客はジャズクラブにも足しげく通っていた。カフェ・ド・フロールの地下でもジャズの演奏が行われ、ボリス・ヴィアンもトランペット奏者として参加した。彼は戦後まもなく『サン=ジェルマン=デ=プレ入門』を著すことになる。 占領下では、カフェ・ド・フロールにドイツ兵が訪れることはほとんどなかったが、初代店主の孫にあたる作家のクリストフ・ブーバルは、ドイツ兵が店に入ってトイレを使おうとしたとき、彼の母(店主の娘)が、これを遮って、「ドイツ兵は悪い人だから、トイレを使ってはいけない」と抗議したというエピソードを紹介している。この頃、毎日のようにカフェを訪れたのは作家レオン=ポール・ファルグとモーリス・サックス(フランス語版)であった。対独協力ユダヤ人として謎の死を遂げたサックスは、店主ブーバルが経営するもう一軒の店「屋根の上の牡牛」に因む回想録『屋根の上の牡牛の時代』を1939年に発表している。 カフェ・ド・フロールは左派・右派を問わず、すべての客を受け入れた。プレヴェールらの10月グループと、サルトルを中心とする実存主義哲学者ないしは共産主義グループが共存する自由な雰囲気があり、1950年代から60年代にかけては同性愛者の密会の場でもあった。同性愛がまだ「反社会的な」行為、あるいは精神疾患とすら見なされていた時代のことであり、LGBT運動の最初の組織が結成されたのは1971年のことである。
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