戦中の日本人への支援
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/15 01:42 UTC 版)
「渡辺トミ・マルガリーダ」の記事における「戦中の日本人への支援」の解説
同1941年、太平洋戦争が勃発した。ブラジルは連合国側についていため、日本は敵国とみなされた。ブラジルに住む多くの日本人は仕事を奪われ、生活費にも事欠くようになった。その一方、日本帝国大使館や日本帝国総領事館など、各地の日本の領事館が閉館を強いられ、日本人保護の機能を失っていた。 サンパウロ州の移民収容所には、謂れのない罪を着せられた多くの日本人が、収容されていた。さらにこの年の冬は寒さが厳しく、収容所の人々の体調が心配された。移民会社・海外興業株式会社の支店長である宮腰千葉太は、親交のあったトミに支援を依頼した。宮腰は、閉館した大使館から預かった資金で、勾留中の日本人に衣類を仕入れたいが、監視が厳しく支援が困難であった。トミならば、ポルトガル語に堪能な上に、すでに多くのブラジル人とも繋がりができていたために、トミを頼ったのであった。トミは、海外興業株式会社も敵国の団体として活動を禁止されており、カトリック教徒の多いブラジルでは慈善活動が活発であったことから、「カトリック婦人会」と架空の団体名を名乗り、勾留中の日本人に衣類を仕入れた。このことが、後年の日本人移民への支援活動の先駆けとなった。 その後もブラジルでは依然として、日本人への圧力が増し、逮捕される者も増加した。トネは宮腰千葉太や、友人の会計士の高橋勝(後のブラジル・トヨタ重役)と協力し、日本人への支援を開始した。このときトミには3人の息子がおり、特に三男はまだ生後間もない赤ん坊であったが、危険を覚悟での活動開始の決意であった。サンパウロ大司教であるドン・ジョセ・ガスパールに協力を求めたことで、救済活動を大司教館のもとで行うとの許可が得られ、1942年、「サンパウロ市カトリック日本人救済会」が発足された。トミたちは寝食を忘れ、拘留者、貧困者、病人、孤児たちを相手に救済活動を行なった。セレスティーノも医療面、資金面で援助した。ローマ教皇庁からも「宗教にかかわりなく日本人困窮者に手を差し伸べなさい」との手紙と共に、3度の救済金が送られた。サンパウロの移民収容所で食事が1日1回しかないことから、その窮状を気に病んで、千人分のサンドイッチを仕入れることもあった。 救済会の活動は決して、平坦なことばかりではなかった。あるときは「救済会は日本のスパイで、教会を利用して活動している」と密告があり、警察所から取り調べを受けたこともあった。トミは厳しい取り調べを前にしても、人間としての主張を決して曲げることはなかった。5時間におよぶ取り調べを受けた日には、緊張と立ちっぱなしのためもあって、トミは帰りは歩けなくてタクシーを呼び、自宅でも階段を登れず、夫の支えを必要としたほどだった。
※この「戦中の日本人への支援」の解説は、「渡辺トミ・マルガリーダ」の解説の一部です。
「戦中の日本人への支援」を含む「渡辺トミ・マルガリーダ」の記事については、「渡辺トミ・マルガリーダ」の概要を参照ください。
- 戦中の日本人への支援のページへのリンク