戦中・戦後の混乱・復興とは? わかりやすく解説

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戦中・戦後の混乱・復興(1941-1949)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 03:35 UTC 版)

野口源三郎」の記事における「戦中・戦後の混乱・復興(1941-1949)」の解説

日中戦争先行き不透明となる中、1941年昭和16年)に文理大陸競技部が所属していた大塚学友会解散し新たに大塚学園報国会発足した。その中に鍛錬部」が設けられ陸上競技部陸上競技となった。この時、野口部長職を下り日本陸連体協理事職も辞して陸上競技の指導者として第一線から退いた日本インカレ主催していた日本学生陸上競技連合1942年昭和17年)に大日本学徒体育振興会に吸収され野口会長橋田邦彦から幹事委嘱された。この頃はまだ若干専門学科教授する時間があり、全学全生徒教員対象とした国防鍛錬や、体錬教授要目改正向けた研究などの業務追われ終電帰宅することも多かった1943年昭和18年)には大日本体育協会から改称した大日本体育会」で陸上戦技部参与国防鍛錬部長就任し野口戦時体制組み込まれたが、心から体制共鳴することはできず、複雑な心境陸上競技が「陸上戦技」へと変貌していく様を見届けた同年後半からは生徒ともに蒲田日本特殊鋼(現・大同特殊鋼工場勤労奉仕派遣され1944年昭和19年)春まで勤務した同年3月からは北多摩郡府中町陸軍燃料廠(現・航空自衛隊府中基地)に配置転換となった転属先の下士官将校生徒意向を全く汲まない非民主的な取り扱いしたため野口は自ら監督責任を負うことを申し出て認めさせた。1945年昭和20年5月23日空襲渋谷自宅東京高師焼失し資料写真をすべて失ったが、家族避難していて無事であった以後焼け残った西田泰介邸にしばらく身を寄せることになった府中終戦迎え8月26日まで貴重品運搬作業続けた1945年昭和20年9月大塚学園復興委員会発足し総務部所属した同年12月大日本体育会参与評議員就任1946年昭和21年10月には東京文理大高師復興委員会委員長となり、学校立て直し乗り出し各種渉外などをこなして東京教育大学設立結び付けたこの際野口東京教育大学日本初体育学部設立目指し学部新設勝ち取ったが、東京高師体育科だけでは規模小さかったため、東京体育専門学校統合して学部設置実現した。また学長選挙では文部省と太いパイプを持つ柴沼直推して当選させ、速やかな大学復興契機作った1947年昭和22年3月には日本陸上競技連盟顧問となる。1948年ロンドンオリンピック日本参加することは認められず、戦中戦後陸上競技停滞により、日本陸上競技10 - 20年前の水準戻ってしまったと野口感じたこの頃野口故郷深谷親戚の家に身を寄せており、毎日満員電車揺られて数時間かけて通勤していた。 東京高師復興進める裏で、野口学校体育復興にも尽力し、「学校体育指導要綱」・「学習指導要領体育編」の策定委員として参画したほか、1948年昭和23年)の最後文検体育主査務め800人の最終合格者出し教育現場送り出した私生活では1948年昭和23年8月渋谷区神泉町旧居跡に自宅再建した

※この「戦中・戦後の混乱・復興(1941-1949)」の解説は、「野口源三郎」の解説の一部です。
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