律令制以降
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令制施行後、「大宰帥」の職名が成立し、親王は三品もしくは四品、臣下であれば従三位(場合によっては正三位)の者が任じられた。初期には大伴旅人のごとく九州に赴任して大納言以上への昇進の足がかりとなる場合も多かったが、やがて参議・中納言などと兼官して赴任せず(遥任)に季禄・職分田などの特権のみを享受する者も現れ、臣下の大宰帥は弘仁年間の多治比今麻呂が最後となる。 大同元年(806年)の伊予親王(桓武天皇皇子)を初例として、以後は親王帥に取って代わり、弘仁14年(823年)の大宰府管内での公営田設置を機に、親王任国と同様、親王(当時は葛原親王)を補任するのが慣例となった。こうした親王帥を「帥宮(そちのみや)」と呼ぶ。その目的は皇室財政の緊縮にあったため、当然親王帥は在京のままで府務を行わず、実際の長官には、臣下から次官の大宰権帥・大弐(任官者が納言クラスなら権帥、参議や散三位クラスなら大弐)を派遣するものとされた。『北山抄』には「如帥・太守等者、為親王所置之官也」と見え、親王帥が固定化しつつあったことが分かる。 ただし、この規定は親王任国の場合と違ってあくまで慣習法に過ぎず、令や格式にて定められたものではなかったから、事情の如何によっては臣下の大宰帥が補任されることがあり得た。長保3年(1001年)の平惟仲や治承3年(1179年)の藤原隆季はその例だが、前者は左遷(実質配流)による権帥藤原伊周の後任になることを嫌ったため、一方後者は権帥として左遷された関白藤原基房を監視するため(実際には備前国に配流とされたために帥の赴任も中止された)であったといわれる。 寛仁3年(1019年)の刀伊の入寇以降は、外寇時の責任が親王へ及ぶことが危惧されたため、例外を除いて帥宮も含めた大宰帥の赴任はなくなったとされている。ただし、親王帥の補任だけは中世以降も断続的に行われ、明治2年(1869年)の官制改革まで存置された。なお、最後の親王帥は有栖川宮熾仁親王である。
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律令制以降
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令制国(豊前国/豊後国) Clip 豊前国(■) Clip 豊後国(■) 6世紀の九州 九州北部の筑紫国においては、527年(第26代継体21年)、新羅阻止のために朝鮮半島に出兵する近江毛野と、新羅と通じていたとされる筑紫国造の豪族筑紫君磐井とのあいだで磐井の乱が起きた。また、531年に北魏から善正上人が渡来して霊泉寺を創設して修験道を作った。534年の北魏の分裂と、第29代欽明天皇期の任那と伽耶の滅亡からしても、鮮卑や新羅の民族の影響が少なくない。 7世紀 660年(第35代斉明6年)に新羅が百済を滅ぼしたため、ヤマト政権は百済復興を目指して朝鮮半島に出兵したが、白村江の戦いにおいて、日本・百済遺民の連合軍は、唐・新羅の連合軍に敗北した。このことから国内でも軍備の見直しが行われることになり、九州北部の大宰府の周囲に土塁が築かれたと言われている。この大宰府も、日田とは日田街道で繋がっている。672年には壬申の乱の影響が各地に広がった。飛鳥の法隆寺が北魏様式に再建されるなど、北魏文化の影響が強まった。 こうしたなかで、九州の国は、7世紀末の第42代文武天皇のころに、筑前・筑後、肥前・肥後、豊前国と豊後国、などのように二つに分けられたといわれる。一方、考古学的見地からは、豊国を統治する勢力があったわけではなく、ヤマト朝廷がこの地域の一部にあった豊国の名称を全体を指して使用した、あるいは豊前国、豊後国の制定時に使用した、との説もある。 8世紀 九州南部で隼人の反乱が起き始め、朝廷軍は大宰府を利用して鎮圧のための出兵をしている。また宇佐の神軍も出兵したが、そのときには薦神社(の前身の社)のマコモも使われたといわれている。 宇佐八幡の荘園であった国東半島には、養老年間に、仏僧の仁聞が28の寺院「六郷満山」を開基したという伝説がある。また、仁聞は同時期、柚富郷(由布市)に六所権現(大神氏の阿南荘)も造営したとされているが、延喜式外神社であり、ヤマト政権と直接の関わりがなかった可能性がある。 玖珠郡では、718年(養老2年)に亀都起古墳の場所に亀都起神社が造営された。杵築神社(初期の出雲大社)の朱砂男と櫛名田比売を勧請して祀ったものとされている。境内には巨石を使った手水舎があり、茅葺屋根の拝殿があり、また入口の池の中央には島が造形されている。 一方、第43代元明の命により、710年には風土記として出雲国風土記、712年には史書として古事記が奈良で編纂される。720年には、群郷の特徴や由緒が記録された豊前国風土記、豊後国風土記が編纂され、また第40代天武天皇の命によって舎人親王が編纂した日本書紀が献上された。 後に令制国に対し中国風の別称がつけられた際、豊前国と豊後国のどちらか一方、あるいは両方をさして豊州(ほうしゅう)と称するようになった。また、豊国と同じ地域、すなわち、豊前国と豊後国の両国をさす語としては、二豊(にほう)・両豊(りょうほう)も用いられる。福岡県東部を除く豊国のほぼ全域が大分県にあたることから、今日でも「豊国」や「二豊」が大分県の別名として用いられることがある。
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