律令制以降とは? わかりやすく解説

律令制以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 15:32 UTC 版)

大宰帥」の記事における「律令制以降」の解説

令制施行後、「大宰帥」の職名成立し親王三品もしくは四品臣下であれば従三位場合によっては正三位)の者が任じられた。初期には大伴旅人のごとく九州赴任して大納言上への昇進足がかりとなる場合多かったが、やがて参議・中納言などと兼官して赴任せず遥任)に季禄・職分田などの特権のみを享受する者も現れ臣下大宰帥弘仁年間多治比今麻呂最後となる。 大同元年806年)の伊予親王桓武天皇皇子)を初例として、以後親王に取って代わり弘仁14年823年)の大宰府管内での公営田設置機に親王任国と同様、親王当時葛原親王)を補任するのが慣例となったこうした親王帥を「帥宮(そちのみや)」と呼ぶ。その目的皇室財政緊縮にあったため、当然親王帥は在京のままで府務を行わず実際長官には、臣下から次官大宰権帥大弐任官者が納言クラスなら権帥参議や散三位クラスなら大弐)を派遣するものとされた。『北山抄』には「如帥・太守等者、為親王所置之官也」と見え親王帥が固定化しつつあったことが分かる。 ただし、この規定親王任国場合違ってあくまで慣習法過ぎず、令や格式にて定められたものではなかったから、事情如何によっては臣下大宰帥補任されることがあり得た長保3年1001年)の平惟仲治承3年1179年)の藤原隆季はその例だが、前者左遷実質配流)による権帥藤原伊周後任になることを嫌ったため、一方後者権帥として左遷され関白藤原基房監視するため(実際に備前国配流とされたために帥の赴任中止された)であったといわれる寛仁3年1019年)の刀伊の入寇以降は、外寇時の責任親王へ及ぶことが危惧されたため、例外除いて帥宮含めた大宰帥赴任なくなったとされている。ただし、親王帥の補任だけは中世以降断続的に行われ明治2年1869年)の官制改革まで存置された。なお、最後親王帥は有栖川宮熾仁親王である。

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律令制以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:08 UTC 版)

豊国」の記事における「律令制以降」の解説

令制国(豊前国/豊後国) Clip 豊前国(■) Clip 豊後国(■) 6世紀九州 九州北部筑紫国においては527年(第26継体21年)、新羅阻止のために朝鮮半島出兵する近江毛野と、新羅通じていたとされる筑紫国造の豪族筑紫君磐井とのあいだで磐井の乱起きたまた、531年北魏から善正上人渡来し霊泉寺創設し修験道作った534年北魏分裂と、第29代欽明天皇期の任那伽耶滅亡からしても、鮮卑新羅民族影響少なくない7世紀 660年(第35斉明6年)に新羅百済滅ぼしたため、ヤマト政権百済復興目指し朝鮮半島出兵したが、白村江の戦いにおいて、日本百済遺民連合軍は、唐・新羅連合軍敗北した。このことから国内でも軍備見直しが行われることになり、九州北部大宰府周囲土塁築かれと言われている。この大宰府も、日田とは日田街道繋がっている。672年には壬申の乱影響各地広がった飛鳥法隆寺北魏様式再建されるなど、北魏文化の影響強まったこうしたなかで、九州の国は、7世紀末の第42文武天皇のころに、筑前筑後肥前肥後豊前国豊後国、などのように二つ分けられといわれる一方考古学的見地からは、豊国統治する勢力があったわけではなくヤマト朝廷がこの地域一部にあった豊国の名称を全体指して使用した、あるいは豊前国豊後国制定時使用した、との説もある。 8世紀 九州南部隼人の反乱起き始め朝廷軍大宰府利用して鎮圧のための出兵をしている。また宇佐神軍出兵したが、そのときには薦神社(の前身の社)のマコモ使われたといわれている。 宇佐八幡荘園であった国東半島には、養老年間に、仏僧仁聞28寺院六郷満山」を開基したという伝説がある。また、仁聞同時期、富郷(由布市)に六所権現大神氏阿南荘)も造営したとされているが、延喜式外神社であり、ヤマト政権直接関わりがなかった可能性がある。 玖珠郡では、718年養老2年)に亀都起古墳の場所に亀都起神社造営された。杵築神社初期出雲大社)の朱砂男と櫛名田比売勧請し祀ったものとされている。境内には巨石使った手水舎があり、茅葺屋根拝殿があり、また入口の池の中央には島が造形されている。 一方、第43元明の命により、710年には風土記として出雲国風土記712年には史書として古事記奈良編纂される。720年には、群郷の特徴由緒記録され豊前国風土記豊後国風土記編纂され、また第40代天武天皇の命によって舎人親王編纂した日本書紀献上された。 後に令制国対し中国風の別称つけられた際、豊前国豊後国どちらか一方、あるいは両方をさして豊州ほうしゅう)と称するようになったまた、豊国と同じ地域、すなわち、豊前国豊後国両国をさす語としては、二豊(にほう)・両豊りょうほう)も用いられる福岡県東部を除く豊国のほぼ全域大分県にあたることから、今日でも「豊国」や「二豊」が大分県の別名として用いられることがある

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