律令制下の陸奥国とは? わかりやすく解説

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律令制下の陸奥国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 05:06 UTC 版)

陸奥国」の記事における「律令制下の陸奥国」の解説

和銅5年712年)に、最上川流域最上郡最上地方および村山地方)と置賜郡置賜地方)を越後国から分割され新たに成立した出羽国現在の庄内地方)に譲ったため、陸奥国上述宮城県域と福島県域と茨城県になった養老2年718年)に、陸奥国は、陸奥国石城国石背国三つ分割された。この分割により、阿武隈川下流北岸から宮城県中部まで(伊具郡刈田郡岩沼以北)の狭い範囲だけが陸奥国となった阿武隈川下流南岸以南太平洋沿岸多から亘理まで)は石城国伊達郡以南阿武隈川流域盆地群(現在の福島県中通り)と会津盆地群で石背国とした。石城国は、分立する際に常陸国から菊多郡編入した。 しかし、養老4年720年以降神亀元年724年以前のいつかの時点で、これら3国は陸奥国再編入された。菊多郡そのまま陸奥属した蝦夷(えみし)の領域接す陸奥国には、陸奥出羽両国統括する陸奥按察使置かれた。陸奥国府には鎮守府置かれ他国から送られ鎮兵統括任務とし、鎮守将軍(後に鎮守府将軍)が両国軍事的に統括した。大同3年808年以前には、陸奥・出羽按察使鎮守将軍とも、陸奥守兼任することが多かった延暦21年802年)に胆沢城造営されると、鎮守府はここに移された。この後鎮官が国司別に任じられるようになり、胆沢城城司に鎮官を充てた。国府多賀城胆沢城鎮守府後方から守る役割になった陸奥国は、蝦夷との戦争をへてしだいに領域を北に拡大し最終的に突出して面積大きなになった版図拡大には城柵設置する政策がとられた。689年持統3年)に優嗜曇評の柵(のち出羽国置賜郡)、724年神亀元)に多賀城宮城県多賀城市)、737年天平9年)に玉造柵宮城県大崎市名生館官衙遺跡あるいは宮沢遺跡か)、同年新田柵(宮城県大崎市大嶺八幡遺跡)、同年牡鹿柵宮城県東松島市赤井遺跡か)、同年色麻柵、759年天平宝字3年)に桃生城宮城県石巻市)、767年神護景雲元)に伊治城宮城県栗原市)、780年宝亀11年)に覚(上幣と下魚)城(未造営か)、802年延暦21年)に胆沢城岩手県奥州市)、803年延暦22年)に志波城岩手県盛岡市)、804年延暦23年)までに中山柵宮城県遠田郡・旧小田郡)、812年弘仁3年)に徳丹城岩手県矢巾町)、遺跡として7世紀中頃仙台郡山遺跡宮城県仙台市)、8世紀前半城生柵宮城県加美町)の15柵がつくられた。 和名類聚抄による田の面積は、5万1440町3反99歩。延喜式による租稲(租の税収)は1582715束。都への貢進物は昆布・縒昆布・策昆布・細昆布・広昆布薬草として甘草・秦膠・大黄石斛人参附子脂、筆、羊の角。交易雑物には鹿の革、独犴ラッコまたは)の皮、砂金昆布・策昆布・細昆布があった。また、特産物の金、名馬毛皮羽根は都の貴族珍重された。 延喜式での租稲配分名目支出(束)正税603000 公廨803715 うち国司料(641200) うち鎮官料(162515) 国分寺料40000 文殊会2000 救急料120000塩竃神料1万0000 学生40001582715

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