律令制下の陸奥国
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和銅5年(712年)に、最上川流域の最上郡(最上地方および村山地方)と置賜郡(置賜地方)を越後国から分割されて新たに成立した出羽国(現在の庄内地方)に譲ったため、陸奥国は上述の宮城県域と福島県域と茨城県域になった。 養老2年(718年)に、陸奥国は、陸奥国・石城国・石背国の三つに分割された。この分割により、阿武隈川下流の北岸から宮城県中部まで(伊具郡・刈田郡・岩沼以北)の狭い範囲だけが陸奥国となった。阿武隈川下流の南岸以南の太平洋沿岸(菊多から亘理まで)は石城国、伊達郡以南の阿武隈川流域盆地群(現在の福島県中通り)と会津盆地群で石背国とした。石城国は、分立する際に常陸国から菊多郡を編入した。 しかし、養老4年(720年)以降神亀元年(724年)以前のいつかの時点で、これら3国は陸奥国に再編入された。菊多郡はそのまま陸奥に属した。 蝦夷(えみし)の領域に接する陸奥国には、陸奥・出羽両国を統括する陸奥按察使が置かれた。陸奥国府には鎮守府が置かれ、他国から送られた鎮兵の統括を任務とし、鎮守将軍(後に鎮守府将軍)が両国を軍事的に統括した。大同3年(808年)以前には、陸奥・出羽按察使、鎮守将軍とも、陸奥守が兼任することが多かった。延暦21年(802年)に胆沢城が造営されると、鎮守府はここに移された。この後鎮官が国司と別に任じられるようになり、胆沢城の城司に鎮官を充てた。国府多賀城は胆沢城鎮守府を後方から守る役割になった。 陸奥国は、蝦夷との戦争をへてしだいに領域を北に拡大し、最終的に突出して面積の大きな国になった。版図の拡大には城柵を設置する政策がとられた。689年(持統3年)に優嗜曇評の柵(のち出羽国置賜郡)、724年(神亀元)に多賀城(宮城県多賀城市)、737年(天平9年)に玉造柵(宮城県大崎市名生館官衙遺跡あるいは宮沢遺跡か)、同年新田柵(宮城県大崎市大嶺八幡遺跡)、同年牡鹿柵(宮城県東松島市赤井遺跡か)、同年色麻柵、759年(天平宝字3年)に桃生城(宮城県石巻市)、767年(神護景雲元)に伊治城(宮城県栗原市)、780年(宝亀11年)に覚(上幣と下魚)城(未造営か)、802年(延暦21年)に胆沢城(岩手県奥州市)、803年(延暦22年)に志波城(岩手県盛岡市)、804年(延暦23年)までに中山柵(宮城県遠田郡・旧小田郡)、812年(弘仁3年)に徳丹城(岩手県矢巾町)、遺跡として7世紀中頃の仙台郡山遺跡(宮城県仙台市)、8世紀前半の城生柵(宮城県加美町)の15柵がつくられた。 和名類聚抄による田の面積は、5万1440町3反99歩。延喜式による租稲(租の税収)は158万2715束。都への貢進物は昆布・縒昆布・策昆布・細昆布・広昆布、薬草として甘草・秦膠・大黄・石斛・人参・附子・猪脂、筆、零羊の角。交易雑物には鹿の革、独犴(ラッコまたは犬)の皮、砂金、昆布・策昆布・細昆布があった。また、特産物の金、名馬、毛皮、羽根は都の貴族に珍重された。 延喜式での租稲配分名目支出(束)正税60万3000 公廨80万3715 うち国司料(64万1200) うち鎮官料(16万2515) 国分寺料4万0000 文殊会料2000 救急料12万0000 祭塩竃神料1万0000 学生料4000 計158万2715
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