律令制下の国博士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 23:24 UTC 版)
律令制で諸国に1名ずつ置かれ、教師として、国司の監督の下で国学の学生(がくしょう)の教育・指導や課試を担当した。外国使臣の応接にもあたり、四度使として、任国の行政にも参画したという。 選叙令によると、式部省の判定による現地採用を原則とし、場合によっては傍の国(隣国)からの採用もやむを得ないとしたが、『続日本紀』によると、大宝3年(703年)には、従来(温故知新)の例からして国博士の任に適する人材はまれであり、傍の国にも該当者が存在しない場合は、省に申告し、(太政官の)処分を経た上で中央から任命することになった。これにより、国博士の現地採用は有名無実化し、中央の大学寮の学生などから任命することが一般化した。 具体的に述べると、和銅元年4月(708年)の制では、「朝」(中央)より補せられた者の「考選」は史生と同じにすると、「土人(くにひと)・傍国(ちかくのくに)」の採用と区別されていたが、神亀5年8月(728年)の太政官奏上には、すべて「八考(8年間)を以て成選(じょうせん)す」となり、博士1人で三四ヶ国を兼任することが可能になった。宝亀10年閏5月(779年)の太政官奏上では学生の食糧持参のことも考えて、再度国ごとに1名とされ、「六考(6年間)成選」に変更されている。また、霊亀2年5月(716年)の制には、大学寮の学生で、修養不足なものについては、国博士に任命してはならぬ、としている。 待遇は諸国の史生に準じ、当国から選ばれる場合は徭役が,隣国から派遣される場合は課役のすべてが免除され、職分田6段・事力 ・公廨稲が支給されていた。
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