尹黙
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字は思潜。梓潼郡涪の人。 益州では今文学が主流で字句の正確な読みを重視しなかったが、尹黙は荊州に遊学して司馬徽・宋忠に師事して古文学を修めた。あらゆる経書・史書に通暁し、『左氏春秋』を厳密に研究し、劉歆の条例を初め、鄭衆・賈徽賈逵父子・陳元・服虔の注説にいたるまで、ほとんど全てを暗唱したので二度書物を開く必要がなかった。 劉備が益州牧となると彼を勧学従事に任命した。のち劉禅が太子に立てられると太子僕に就任して、劉禅に『左氏春秋』の教育を授ける。劉禅が帝位に上ると諫議大夫に昇進。丞相諸葛亮が漢中に駐屯したとき、呼ばれて軍の祭酒とされた。諸葛亮が陣没すると成都に帰って太中大夫に任命され、やがて亡くなった。 【参照】賈逵 / 賈徽 / 司馬徽 / 諸葛亮 / 宋忠 / 陳元 / 鄭衆 / 服虔 / 劉歆 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 漢中郡 / 荊州 / 梓潼郡 / 成都県 / 涪県 / 勧学従事 / 諫議大夫 / 祭酒 / 丞相 / 太子僕 / 太中大夫 / 牧 / 春秋左氏伝(左氏春秋) / 今文学 / 古文学 |
尹黙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 15:27 UTC 版)
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尹黙 | |
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蜀漢 太中大夫 |
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出生 | 生年不詳 益州梓潼郡涪県 |
拼音 | Yǐn Mò |
字 | 思潜 |
主君 | 劉備→劉禅 |
尹 黙(いん もく、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の学者・政治家。字は思潜。益州梓潼郡涪県の出身。子は尹宗。『三国志』蜀志に伝がある。
生涯
当時、益州では今文の学が盛んで、字句の正確な読みを重視していなかった。
尹黙は広い視野で学問をするために、李仁(李譔の父)とともに荊州へ遊学し、司馬徽・宋忠らに師事して古文の学を学んだ。
あらゆる経書・史書に通じ、特に『春秋左氏伝』を詳しく研究し、劉歆の条例や鄭衆・賈逵父子・陳紀・服虔の注説などをほぼ暗誦したため、再び書物を開くことはなかった。
建安19年(214年)、劉備が益州を手に入れ牧を兼務すると、尹黙は勧学従事に任命された。
建安25年(220年)、同僚たちとともに、帝位に就くようにとの上奏文を劉備に奉じた。
章武元年(221年)5月、劉禅が立太子されると太子僕に任命され、『春秋左氏伝』を教授した。
建興元年(223年)5月、劉禅が即位すると諫義大夫に任命された。その後、漢中に駐屯していた諸葛亮の要請により、軍祭酒に任命された。
建興12年(234年)、諸葛亮が病没すると成都へ帰還し太中大夫に任命されたが、間もなく死去した。
子の尹宗は父の学問を受け継ぎ、博士となった。
小説『三国志演義』には、ほぼ名のみの登場である。
参考文献
- >> 「尹默」を含む用語の索引
- 尹默のページへのリンク