小学校教師として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 16:45 UTC 版)
「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」の記事における「小学校教師として」の解説
『論理哲学論考』の前書きでも自負しているように、ウィトゲンシュタインは、この本を書き終えた時点で、哲学の問題はすべて解決されたと考え、ラッセルやオグデンらが刊行準備に奔走しているのを尻目に、哲学を離れてオーストリアに戻り、出征していたころから希望していた教師になるため、1919年9月から1920年7月まで教員養成学校へ通い、小学校教師資格証明書を取得する。 教育実習でウィトゲンシュタインが訪れたのは、ウィーンの南にあるニーダーエスターライヒ州の比較的に発展した町マリア・シュルッツの学校であった。しかし、ウィトゲンシュタインは、もっと田舎へ行きたいとみずから希望して、そこから近い村トラッテンバッハ(Trattenbach)へ赴任することとなった。 ウィトゲンシュタインの教育方針は、紙の上の知識よりも、子供たちが自分で好奇心をもって見聞を広めることを重視したものであった。理科の授業では、猫の骸骨を生徒と集めて骨格標本を作ったり、夜に集まって天体観測をしたり、自分の顕微鏡で道端の植物を観察させたりした。また、銅鉱山や印刷所、あるいは古い建築様式をもつ建築物のあるウィーンなどへの社会科見学もたびたび行なった。その他にも、数学ではかなり早い段階から代数学を教えるなど、非常に熱心な教育者であった。というのも、ウィトゲンシュタインが教職資格を取得したのは、旧弊的な教育方針に対する改革が、社会民主主義者たちによって進められていた時期だったからである。 しかし、こうした動きに対して、農村などの保守的な地域では反発も生まれていた。独自の教育方針を貫いたウィトゲンシュタインも、地元の村人や同僚の理解を得ることができず、しだいに孤立してゆくこととなる。その上、ウィトゲンシュタインは教師としてきわめて厳格であり、覚えの悪い生徒への体罰をしばしば行なっていたため、保護者たちは、よそ者であるウィトゲンシュタインに対する不信感を強めてゆくこととなった。 ただし、このような一面もある。生徒の女の子が何度も綴りを誤ってノートに記入したため、ウィトゲンシュタインはいつものように体罰を加え、さらに字を誤った理由を問いただした。だが、その女の子は、黙ったまま何も答えなかった。ウィトゲンシュタインが「病気か」と尋ねると、女の子は「はい」と嘘をついた。しかし、彼は、その嘘に気付くことができず、その女の子に涙を流して許しを請いた。 ウィトゲンシュタインは、1922年にハスバッハ村の中学校へ転勤するが、1ヵ月後にはプフベルクの小学校へ移る。このころから、ラムゼイやケインズらと書簡を交わして、旧交を温めはじめている。1924年、トラッテンバッハの隣村オッタータル(Otterthal)へ赴任した。ウィトゲンシュタインは、この地で『小学生のための正書法辞典』の編纂に着手した。オーストリアでは一部地域を除きオーストリアドイツ語が使用され、標準ドイツ語(Hochdeutsch)とは発音・スペルが異なる。また農村では方言の影響も強く、子供たちはしばしばスペルを間違えた。従来の教育法では、生徒の間違えた単語の正しい綴りを教師がそのつど黒板に書いて教えるという効率の悪い方法しかなかった。また既存の辞書は小学生が使用できるものではなかった。生徒が自ら学ぶことを重視したウィトゲンシュタインは、生徒たちの書いた作文から使用頻度の高い基本単語をリストアップして、約2500項目からなる単語帳を作成した。これを参照することによって、生徒はあらかじめ正しい綴りをみずから見出すことができるようになり、教師の側では生徒の作文にスペルミスを見つけたときに、一々訂正せずとも欄外に簡単な印を付けるだけで済むことになった。この『小学生のための正書法辞典』は、1926年に刊行された。生前に出版された彼の著書は、『論理哲学論考』とこの辞書だけである。 しかし、こうしたウィトゲンシュタインの熱意は、地元の父兄には理解されることなく、両者の間の溝はますます深まり、狂人だという噂まで広がった。この頃、ケインズに宛てた書簡では、教職を諦めたときには、イギリスで仕事を探したいので、協力を頼みたいと伝えている。1926年4月、質問に答えられない一人の生徒に苛立ったウィトゲンシュタインは、例によって体罰を加えた。頭を叩かれたその生徒はその場で気絶してしまい、さすがのウィトゲンシュタインも慌てて医師を呼んだ。しかし、このとき気絶した生徒の母親を住み込みの家政婦として雇っていた男が、ウィトゲンシュタインに罵詈雑言を浴びせ、そのうえ他の村民と共謀してウィトゲンシュタインを精神鑑定にかけるよう警察に訴えるという法的行為に及んだため、事態は収拾困難になってしまった。4月28日、彼は辞表を提出した。 辞職して間もないころ、絶望の淵にあったウィトゲンシュタインは、修道僧になって世捨て人として生きようと考えて修道院を訪ねたが、修道院長から聖職者になる動機としては不純であると諭されて、諦めざるをえなかった。しかし、それでも社会復帰をする気になれなかったため、ウィーン郊外のヒュッテルドルフにある別の修道院へ行き庭師になった。
※この「小学校教師として」の解説は、「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」の解説の一部です。
「小学校教師として」を含む「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」の記事については、「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」の概要を参照ください。
- 小学校教師としてのページへのリンク