小学校教員時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 02:30 UTC 版)
1875年(明治8年)、倉次は千葉師範学校教員検定試験に合格し、嬉しかったそうだ。 千葉県上埴生郡水沼小学校に正式に小学校教員として勤めたが、新聞社への転職を目指し退職し、上京する。しかし、1878年(明治11年)、再び教師を志して千葉師範学校に編入学し、翌1879年(明治12年)に同校を卒業、以後は南相馬郡鷲野谷小学校、千葉郡浜田小学校、長柄郡茂原小学校と、千葉県内の小学校を歴任している。 1881年(明治14年)、久野さのと結婚。翌1882年(明治15年)に長男文平が生まれる。この頃より、国語や国字に関心を持ち、同年には東京の「かなのくゎい」に加入している。同会は、漢字の使い方や仮名遣い、話し言葉と書き言葉の関連性などについて研究する会で、倉次は1884年(明治17年)の東京虎ノ門で開催された際、後に師と仰ぐことになる小西信八と出会った。
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