大友家の大黒柱と最期
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天正6年(1578年)、大友宗麟は島津氏討伐を企図し始める。道雪はこの方針に反対していたが、宗麟は日向侵攻を強行した。この際、道雪は従軍していなかった。この日向侵攻により発生した耳川の戦いで大友勢は大敗を喫し、宗麟の参謀役であった角隈石宗や重臣の吉弘鎮信、斎藤鎮実、佐伯惟教、田北鎮周など多数の有力武将を失っている。これにより、大友家の勢力は大いに衰えることになった。この大敗を知った際、道雪は宗麟とその嫡子の大友義統、そしてこの合戦を指揮した重臣を痛烈に批判した。 以後、大友氏は島津氏に対して守勢に回ることになる。この不利な情勢下で道雪は家臣の離反が相次ぐ大友氏に忠誠を尽くし、高橋紹運とともに島津氏と戦い続けることになった。天正7年(1579年)には宗像氏・麻生氏・原田氏の反乱を鎮圧した。天正8年(1580年)には豊後南郡衆の裏切りを憂慮して9か条の檄文を出している。 天正8年(1580年)秋、龍造寺氏の筑前遠征が始まり、大友方の荒平城が攻め落とされる。道雪の居城、立花城攻めが計画される中、筑紫広門の仲介により道雪は龍造寺氏と和睦する。筑前15郡を二つに分け、東北6郡を大友領、西南9郡を龍造寺領と定めた(別資料では大友方城、立花岩屋宝満の城付を除いて、全て龍造寺領と定められたともある)。 天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち死にしたことにより、島津方の圧力が強まる中、道雪は高橋紹運や朽網鑑康と共に筑後の支配を回復すべく戦っていた。3月、豊後国の大友軍は黒木家永の筑後猫尾城を攻撃したが、城方の奮戦や龍造寺方の援軍・土肥家実(土肥出雲守)を前に戦線は膠着した。8月18日、道雪と紹運は大友義統の出兵要請を受け、両家合わせておよそ5,000の兵で出陣し、勇ましい強行軍の態勢で敵領地の筑後川や道路が未整備の鷹取山、耳納連山の高峰や九十九折など山険難所を越え、鉄砲隊で埋伏していた秋月、筑紫、草野、星野連合軍を蹴散らし(田主丸町・片瀬、恵利渡口・石垣表の戦い)、ただ1日で筑前から筑後まで15里(約60キロ)の行程を走って、8月19日夕方、猫尾城の支城・高牟礼城下に到着した。道雪はさっそく城将・椿原氏部を調略し、24日に高牟礼城は開城降服して、土肥家実も城から佐賀へ戻った。つづいて犬尾城の川崎重高(一説には河崎鎮堯)も降り、25日には川崎の権現山に陣替えしたが、筑後高良山座主・丹波良寛や大祝保真、宗崎孝直、甘木家長、稲員安守らも大友軍に加わった。 28日には道雪が一族の立花鎮実(戸次右衛門大夫)を将として800の別働隊を率いて坂東寺に入り城島城を攻めた。立花勢は鎮実以下、竹迫鑑種(竹迫日向守)と安倍親常(安倍六弥太)が勇戦して数人を討ち取ったが、城主西牟田家親と西牟田家和兄弟の率いる城兵300騎の激しい抵抗に遭った。道雪は増援部隊を送ったが、そこへ龍造寺政家の援兵が到着したので髙良山へ撤退した。立花勢は100余りの死傷者を出した。立花方の大将、戸次右衛門太夫もこの時に討ち取られたとされる。ただし、右衛門太夫の戦死の時期については異説もある。 道雪と紹運の本隊は酒見・榎津・貝津などの集落を焼き払って、ついに大友諸将と軍議をひらいて猫尾城の総攻撃を決めて、9月5日に落城させた。 9月8日から11日まで、蒲池鎮運の山下城や谷川城、辺春城、兼松城、山崎城など筑後諸城を降伏、攻落した。この間にもう一度坂東寺に陣を取り、豊後大友軍の総大将・田原親家と軍議して三潴郡の西牟田村・酒見村・榎津近辺数百の民家を焼き払い、9日に柳川城周辺の山門郡内の龍造寺方の諸城を攻めて、10日に上瀬高・下瀬高・鷹尾村を焼き払って、城主・田尻鑑種が不在であった鷹尾城も占領した。 龍造寺家晴の柳川城は九州有数の難攻の水城であり、その支城、百武賢兼の妻・圓久尼が鎮守する蒲船津・百武城も同じ水路が入りくみ沼地が自然の要害となっていた難攻の城で、さすがの道雪、紹運も攻略の進展ができなかった。そのため、10月3日には筑後高良山座主・丹波良寛の勧めもあって、高良山に引揚げ、軍勢を転じて久留米城、安武城、吉木竹井城を攻落した。10月4日、両軍は草野鎮永の発心岳城を進攻し、10月28日(一説には12月8日)には鎮永偽降の謀で、善導寺の戦いに数人の重臣を失った。のち星野吉実の鷹取城・福丸城・星野城、そして11月14日に問註所康純の井上城を攻めて、秋月領の甘木辺りまで焼き討ちした。その際、田原親家は両将の戦功を嫉み、更に年の暮れが迫っていたので、豊後に引揚げた。残された道雪、紹運や朽網鑑康、志賀親守らは、高良山を中心に筑後川に沿った柳坂から北野に布陣したまま、年の越えを迎える。 天正13年(1585年)2月上旬から4月23日まで龍造寺政家、龍造寺家晴、鍋島直茂、江上家種、後藤家信、筑紫広門、波多親、草野鎮永、星野吉実、秋月種実、問註所鑑景、城井鎮房、長野種信、千手氏など肥前、筑前、筑後、豊前連合軍およそ30,000余の大軍と小森野、十三部、千本杉、祇園原など(総じて筒川合戦や久留米合戦) で数々の激戦があったが、道雪と紹運、鑑康、良寬ら大友軍は9,800の劣勢ながら、いずれも見事で兵法、戦術や兵器、陣形を活用してしばしば局地戦で敵大軍を撃破し、討ち取った雑兵数百及び兜首計約四百七十の戦果を挙げたが、龍造寺側に決定的な打撃を与えることができなかった。 6月、柳川城攻めの最中に道雪は高良山の陣中にて病を得た。高良大社(現在の福岡県久留米市)で病気平癒の祈願が行なわれ、行動を共にしていた高橋紹運も必死に看病した。しかし道雪は9月11日に病死した。享年73。辞世は「異方(ことかた)に、心引くなよ、豊国(とよくに)の、鉄(かね)の弓末(ゆずえ)に、世はなりぬとも」。 10月28日に大友義統が道雪の妻に与えた書状は、道雪を悼むとともに、生前の忠節を顕彰し、かつその後室を慰めたものである。道雪の留守を預かってその後方支援を続けた永年の苦労をねぎらったものとして意義深いといえる。
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