大友家の大黒柱と最期とは? わかりやすく解説

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大友家の大黒柱と最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:10 UTC 版)

立花道雪」の記事における「大友家の大黒柱と最期」の解説

天正6年1578年)、大友宗麟島津氏討伐企図し始める。道この方針に反対していたが、宗麟は日向侵攻強行したこの際、道従軍していなかった。この日向侵攻により発生した耳川の戦い大友勢は大敗喫し、宗麟の参謀であった角隈石宗重臣吉弘鎮信斎藤鎮実佐伯惟教田北鎮周など多数の有力武将を失っている。これにより、大友家勢力大い衰えることになった。この大敗知った際、道は宗麟とその嫡子大友義統、そしてこの合戦指揮した重臣痛烈に批判した以後大友氏島津氏に対して守勢に回ることになる。この不利な情勢下で道家臣離反相次ぐ大友氏忠誠尽くし高橋紹運とともに島津氏戦い続けることになった天正7年1579年)には宗像氏麻生氏原田氏反乱鎮圧した天正8年1580年)には豊後南郡の裏切りを憂慮して9か条の檄文出している。 天正8年1580年)秋、龍造寺氏筑前遠征始まり大友方の荒平城攻め落とされる。道居城立花城攻め計画される中、筑紫広門仲介より道龍造寺氏和睦する筑前15郡を二つ分け東北6郡を大友領、西南9郡を龍造寺領と定めた(別資料では大友方城立花岩屋宝満の城付を除いて全て龍造寺領と定められたともある)。 天正12年1584年)の沖田畷の戦い龍造寺隆信討ち死にしたことにより、島津方の圧力が強まる中、道高橋紹運朽網鑑康と共に筑後支配回復すべく戦っていた。3月豊後国大友軍は黒木家永筑後猫尾城攻撃したが、城方奮戦龍造寺方の援軍土肥家実(土肥出雲守)を前に戦線膠着した。8月18日、道と紹運は大友義統出兵要請を受け、両家合わせておよそ5,000の兵で出陣し、勇ましい強行軍態勢で敵領地筑後川道路未整備鷹取山耳納連山高峰九十九折など山険難所越え鉄砲隊埋伏していた秋月筑紫草野星野連合軍蹴散らし田主丸町片瀬恵利渡口石垣表の戦い)、ただ1日筑前から筑後まで15里(約60キロ)の行程走って8月19日夕方猫尾城支城・高牟礼城下到着した。道はさっそく城将椿原氏部調略し、24日に高牟礼城は開城降服して土肥家実も城から佐賀戻ったつづいて犬尾城川崎重高(一説には河崎鎮堯)も降り25日には川崎権現山に陣替えしたが、筑後高良山座主丹波良寛大祝保真、宗崎孝直甘木家長、稲員安守らも大友軍に加わった28日には道一族立花鎮実(戸次右衛門大夫)を将として800別働隊率いて坂東寺に入り城島城攻めた立花勢は鎮実以下、竹迫鑑種(竹迫日向守)と安倍親常(安倍六弥太)が勇戦して数人討ち取ったが、城主西牟田家親と西牟田家和兄弟率い城兵300騎の激し抵抗遭った。道増援部隊送ったが、そこへ龍造寺政家援兵到着したので髙良山へ撤退した立花勢は100余り死傷者出した立花方の大将戸次右衛門太夫もこの時に討ち取られとされる。ただし、右衛門太夫戦死時期については異説もある。 道と紹運の本隊酒見榎津貝津などの集落焼き払って、ついに大友諸将軍議ひらいて猫尾城総攻撃決めて9月5日落城させた。 9月8日から11日まで、蒲池鎮運の山下城谷川城、辺春城、兼松城、山崎城など筑後諸城降伏攻落した。この間もう一度坂東寺に陣を取り豊後大友軍の総大将田原親家軍議して三潴郡西牟田村酒見榎津近辺数百民家焼き払い9日柳川城周辺山門郡内の龍造寺方の諸城攻めて10日上瀬高・下瀬高鷹尾村焼き払って城主田尻鑑種不在であった鷹尾城占領した龍造寺家晴柳川城九州有数難攻水城であり、その支城百武賢兼の妻・圓久尼が鎮守する船津百武城も同じ水路入りくみ沼地が自然の要害となっていた難攻の城で、さすがの道、紹運も攻略進展ができなかった。そのため、10月3日には筑後高良山座主丹波良寛勧めもあって、高良山引揚げ軍勢転じて久留米城安武城、吉木竹井城を攻落した。10月4日両軍草野永の発心岳城を進攻し、10月28日一説には12月8日)には鎮永偽降の謀で、善導寺戦い数人重臣失った。のち星野吉実鷹取城福丸城・星野城、そして11月14日問註所康純の井上城攻めて秋月領の甘木辺りまで焼き討ちした。その際田原親家は両将の戦功嫉み、更に年の暮れ迫っていたので、豊後引揚げた残された道、紹運や朽網鑑康志賀親守らは、高良山中心に筑後川沿った坂から北野布陣したまま、年の越え迎える。 天正13年1585年2月上旬から4月23日まで龍造寺政家龍造寺家晴鍋島直茂江上家種後藤家信筑紫広門波多親草野鎮永、星野吉実秋月種実問註所鑑景、城井鎮房長野種信、千手氏など肥前筑前筑後豊前連合軍およそ30,000余の大軍小森野十三部、千本杉祇園原など(総じて筒川合戦久留米合戦) で数々激戦があったが、道と紹運、鑑康、良寬大友軍は9,800劣勢ながら、いずれも見事で兵法戦術兵器陣形活用してしばしば局地戦で敵大軍撃破し討ち取った雑兵数百及び兜首計約四百七十戦果挙げたが、龍造寺側に決定的な打撃与えることができなかった。 6月柳川城攻め最中に道高良山陣中にて病を得た。高良大社現在の福岡県久留米市)で病気平癒祈願が行なわれ、行動を共にしていた高橋紹運必死に看病した。しかし道9月11日病死した。享年73辞世は「異方ことかた)に、心引くなよ、豊国とよくに)の、(かね)の弓末(ゆずえ)に、世はなりぬとも」。 10月28日大友義統が道の妻に与えた書状は、道悼むとともに生前忠節顕彰し、かつその後室を慰めたのである。道留守を預かってその後支援続けた永年苦労ねぎらったものとして意義深いといえる

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