大友家の日向侵攻とは? わかりやすく解説

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大友家の日向侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 09:49 UTC 版)

耳川の戦い」の記事における「大友家の日向侵攻」の解説

ところが、天正5年1577年)、日向伊東義祐島津氏敗北日向一時的に退去し大友氏身を寄せた大友宗麟伊東家主従300町を与えて庇護した。また伊東家家臣であり島津家投降した門川城主米良四郎右衛門潮見城主右松四郎左衛門山陰城主米良喜内が大友家家臣佐伯惟教日向侵攻時の先導役を申し出たこうした状況の中、天正6年1578年)に入ると、大友宗麟・義統は島津氏北上対抗して伊東氏日向復帰させるために3万とも4万といわれる軍を率いて日向への遠征決定する大友軍は肥後口と豊後口の二手分かれ志賀道輝朽網鑑康一萬田鑑実らが肥後口を、大友宗麟親子豊後口を担当した天正6年1578年2月21日大友軍の先鋒日向国門川城に入った豊後退去していた伊東家家臣団先鋒加わり日向の国衆へ調略行った伊東家家臣長倉祐政山田宗昌らは耳川越えて島津家勢力圏侵入石ノ城挙兵をした。それに呼応して内応約束していた伊東家家臣団米良四郎右衛門右松四郎左衛門米良喜内も挙兵し島津方の縣城土持親成攻めた3月18日には佐伯入道田原親賢田北鎮周らが土持親成攻撃参加し大友軍による日向侵攻本格化した。土持親成松尾城籠城したが、4月15日陥落し行縢への撤退中に捕らえられ斬殺された。大友軍は耳川以北日向制圧成功し島津家勢力耳川以南後退した一方島津義久6月島津忠長総大将とした7000名程の軍を日向へと派遣長倉祐政山田宗昌伊東家家臣団600名程が守る石ノ城攻め石城合戦)を命じた島津軍7月8日総攻撃開始したが、副将川上範久が討死総大将島津忠長は左肘を矢で射抜かれ重傷を負うなど、500名以上の死傷者をだして伊東軍に返り討ちにされ敗北し日向佐土原へと撤退した大友義統石ノ城伊東家籠城軍感状送り勝利をねぎらっている。大友軍は土持領攻略時、領内寺社仏閣徹底的に破壊している。その背景にはキリシタンだった宗麟の意向影響している。一説によると宗麟は日向キリシタン王国建設めざしたという。宗麟のキリスト教への傾倒大友家家臣団との間に不協和生じさせた。宗麟は8月宣教師とともに日向国入り、無鹿に本営置いた

※この「大友家の日向侵攻」の解説は、「耳川の戦い」の解説の一部です。
「大友家の日向侵攻」を含む「耳川の戦い」の記事については、「耳川の戦い」の概要を参照ください。

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