大友家の日向侵攻
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ところが、天正5年(1577年)、日向の伊東義祐が島津氏に敗北。日向を一時的に退去し、大友氏に身を寄せた。大友宗麟は伊東家主従に300町を与えて庇護した。また伊東家家臣であり島津家に投降した門川城主の米良四郎右衛門、潮見城主の右松四郎左衛門、山陰城主の米良喜内が大友家の家臣佐伯惟教に日向侵攻時の先導役を申し出た。こうした状況の中、天正6年(1578年)に入ると、大友宗麟・義統は島津氏の北上に対抗して伊東氏を日向に復帰させるために3万とも4万ともいわれる軍を率いて日向への遠征を決定する。大友軍は肥後口と豊後口の二手に分かれ、志賀道輝、朽網鑑康、一萬田鑑実らが肥後口を、大友宗麟親子は豊後口を担当した。天正6年(1578年)2月21日大友軍の先鋒は日向国門川城に入った。豊後に退去していた伊東家家臣団も先鋒に加わり日向の国衆へ調略を行った。伊東家家臣の長倉祐政、山田宗昌らは耳川を越えて島津家の勢力圏に侵入、石ノ城で挙兵をした。それに呼応して内応を約束していた伊東家家臣団の米良四郎右衛門、右松四郎左衛門、米良喜内も挙兵し島津方の縣城主土持親成を攻めた。3月18日には佐伯入道、田原親賢、田北鎮周らが土持親成攻撃に参加し、大友軍による日向侵攻が本格化した。土持親成は松尾城に籠城したが、4月15日に陥落し行縢への撤退中に捕らえられ斬殺された。大友軍は耳川以北の日向制圧に成功し、島津家の勢力は耳川以南に後退した。一方島津義久は6月に島津忠長を総大将とした7000名程の軍を日向へと派遣、長倉祐政、山田宗昌ら伊東家家臣団600名程が守る石ノ城攻め(石城合戦)を命じた。島津軍は7月8日に総攻撃を開始したが、副将川上範久が討死、総大将島津忠長は左肘を矢で射抜かれ重傷を負うなど、500名以上の死傷者をだして伊東軍に返り討ちにされ敗北し、日向佐土原へと撤退した。大友義統は石ノ城の伊東家籠城軍に感状を送り、勝利をねぎらっている。大友軍は土持領攻略時、領内の寺社仏閣を徹底的に破壊している。その背景にはキリシタンだった宗麟の意向が影響している。一説によると宗麟は日向でキリシタン王国の建設をめざしたという。宗麟のキリスト教への傾倒は大友家家臣団との間に不協和を生じさせた。宗麟は8月に宣教師とともに日向国に入り、無鹿に本営を置いた。
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