大友宗麟の日向攻めと県土持氏の滅亡とは? わかりやすく解説

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大友宗麟の日向攻めと県土持氏の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 22:59 UTC 版)

土持親成」の記事における「大友宗麟の日向攻めと県土持氏の滅亡」の解説

元亀3年1572年5月木崎原の戦い敗戦後伊東氏急速に衰亡。親成、財部土持氏旧領復すため、隙をついて門川城を攻めるも悉く城主米良氏防がれ膠着状態になると、伊東氏側の要請三田井親武和睦尽力し高信に娘を嫁がせる条件停戦する天正5年1577年12月10日島津氏調略によって伊東氏家臣離反すると伊東義祐らは佐土原城都於郡城引き払い大友氏頼って豊後落ち延びる以後日向島津氏一円支配に入る。これに伴い、翌天正6年1578年1月2日、親成は土持相守(高信)を派遣し島津義久と結び大友氏から離反義久によって石塚三ケ名を宛がわれた。また、親成は高千穂北方上野玄武城城主吉村種供を指嗾し、高千穂押さえ三田井氏対抗させ県の西側安定を図るも、返って大友氏援護欲し三田井氏に「土持に叛意有り」と通謀されている。 しかし、伊東義祐や一時は島津方についた米良四郎右衛門尉伊東家臣の要請により、同年3月15日大友宗麟は3(『延陵世鑑』)とも4フロイス日本史』)とも言われる大軍率いて日向侵攻する。これに伊東旧臣呼応して米良四郎右衛門尉らが大友勢の先方として門川方面から縣に攻め込み石ノ城潜伏中長倉祐政蜂起、これにて土持・島津間の連絡線がほぼ途絶する。親成はこれより先の2月に、慈福寺住職寿を使者として派遣し大友方に和睦請うていたが、寿は殺害され聞き入れられなかった。 大友義統率い本隊は、宇目酒利に本陣を置き、峠越えで縣(延岡)へ向かう。縣攻め主体日出・玖珠・宇佐の兵といわれる別動隊肥後国から矢ケ嶺越え高千穂向かい玄武城高千穂町)に拠った吉村氏が滅んだ同年4月7日大友軍は日向入り、社ケ原(やしろがはら)に布陣する。延岡の北・北川岸塁では、家臣奈津田(夏田弾左衛門安藤下総らが僅か数十名で応戦するなど、積極的な戦術敢然と戦った衆寡敵せず突破され、松尾城包囲された。4月10日、親成は盛んに烽火上げ島津氏連絡を取る様に見せかけ大友方を牽制したが、この策も見破られ一説角隈石宗松尾城陥落。親成は捕縛され豊後への移送中に豊後浦辺にて自害させられた。なお、捕縛される以前自害しなかった親成に対し大友家中では彼を誹ったが、佐伯惟教最後まで救おうとしたそうである[要出典]。 なおこれらの戦闘において、キリスト教による理想建設めざしていた大友軍が縣領内神社仏閣ことごとく焼き払ったフロイス日本史』)ため、寺社建築仏像古文書など宮崎県北の文化財ことごとく破壊・破脚される。その結果宮崎県北部地域近世以前一次史料は、ほぼ壊滅的失われている。また、川内名というところに1489年に土持親栄が創建した曹洞宗吉祥寺焼かれている[要出典]。

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「大友宗麟の日向攻めと県土持氏の滅亡」を含む「土持親成」の記事については、「土持親成」の概要を参照ください。

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