大友家から豊臣家、徳川家へ
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「骨喰藤四郎」の記事における「大友家から豊臣家、徳川家へ」の解説
骨喰藤四郎は宗麟からその子の大友義統へ継承されたが、藤四郎吉光の刀を集めていた豊臣秀吉がこれを求め、松井友閑と千利休の仲介により献上されて以降は豊臣家の所有となる。1585年(天正13年)9月27日付け大友義統宛にて、豊臣秀吉が吉光骨啄刀を受け取ったことに感謝する謝礼の書状が遺されている。また義統による1586年(天正14年1月26日)の覚書も残っており、秀吉へ渡った大友家の名物として玉澗の青楓絵、小壺茄子、新田肩衝と共に「吉光御腰物骨喰」が記され、「三ヶ年中に天下の名物、豊州より上され候事、奇特神変の由、貴賤批判の由、申候也」と大友家からの度重なる名物の献上が世間を騒がせた様子も書き添えられている。これらの古文書により、秀吉が大友家から召し上げたときには既に薙刀から大脇差に磨り上げられていたことが分かる。 一説によれば、骨喰藤四郎は1615年(慶長20年)の大坂夏の陣にて大坂城の炎上落城に巻き込まれるが、大坂城の堀から無傷で見つけ出された。その後、発見した町人が本阿弥光室に届け出て、光室から徳川秀忠に献上されて以降は徳川将軍家の所有となった、という。しかし、豊臣家を出て徳川将軍家に入り明暦の大火に巻き込まれるまでの逸話については『日本刀大百科事典』が載せるだけでも8つ程度あり、諸説紛々としている。 1657年(明暦3年)に発生した明暦の大火で被災して焼刃となり、3代越前康継によって焼き直しされている。また、8代将軍・吉宗の命で編纂された『享保名物帳』にも骨喰藤四郎の記述が遺されている。その後、骨喰藤四郎は紀州徳川家に下賜される。
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