大友家から豊臣家、徳川家へとは? わかりやすく解説

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大友家から豊臣家、徳川家へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:41 UTC 版)

骨喰藤四郎」の記事における「大友家から豊臣家、徳川家へ」の解説

骨喰藤四郎は宗麟からその子大友義統継承されたが、藤四郎吉光の刀を集めていた豊臣秀吉がこれを求め松井友閑千利休仲介により献上され以降豊臣家所有となる。1585年天正13年9月27日付け大友義統宛にて、豊臣秀吉吉光骨啄刀を受け取ったことに感謝する謝礼書状が遺されている。また義統による1586年天正14年1月26日)の覚書残っており、秀吉渡った大友家名物として玉澗青楓絵、小壺茄子新田肩衝と共に吉光御腰物骨喰」が記され、「三ヶ年中に天下名物豊州より上され候事、奇特神変の由、貴賤批判の由、申候也」と大友家からの度重なる名物献上世間騒がせた様子書き添えられている。これらの古文書により、秀吉大友家から召し上げときには既に薙刀から大脇差磨り上げられていたことが分かる一説によれば骨喰藤四郎1615年慶長20年)の大坂夏の陣にて大坂城炎上落城巻き込まれるが、大坂城の堀から無傷で見つけ出された。その後発見した町人本阿弥光室届け出て、光室から徳川秀忠献上され以降徳川将軍家所有となった、という。しかし、豊臣家出て徳川将軍家入り明暦の大火巻き込まれるまでの逸話については『日本刀大百科事典』が載せるだけでも8つ程度あり、諸説紛々としている。 1657年(明暦3年)に発生した明暦の大火被災し焼刃となり、3代越前康継によって焼き直しされている。また、8代将軍吉宗の命で編纂された『享保名物帳』にも骨喰藤四郎記述が遺されている。その後骨喰藤四郎紀州徳川家下賜される。

※この「大友家から豊臣家、徳川家へ」の解説は、「骨喰藤四郎」の解説の一部です。
「大友家から豊臣家、徳川家へ」を含む「骨喰藤四郎」の記事については、「骨喰藤四郎」の概要を参照ください。

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