公認会計士による監査の普及
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「監査の歴史」の記事における「公認会計士による監査の普及」の解説
イギリス 民間においては、株主による監査(いわゆる自由監査)が行われていたが、専門家ではない者による知識の不足や、会社の費用で監査をするために独立性が問題となっていた。イギリスではシティ・オブ・グラスゴー銀行の大規模な破綻と粉飾決算(1878年)により、監査人の独立性が問題とされて法改正のきっかけにもなった。会計教育に監査も含まれるようになり、勅許会計士のフランシス・ピクスレー(英語版)は初の監査実務書『Accountancy - constructive and recording accountancy』(1881年)を出版した。 職業会計士による監査が一般化し、会社法(1907年)で監査役の独立性、貸借対照表開示義務などが定められた。さらに1927年に損益計算書が公開対象となり、1947年に会計監査役には職業会計士が限定となった。1967年には、世界で初めて全ての株式会社に財務諸表の開示と監査が義務づけられた。監査基準については1970年代から各会計士協会が指針を出し、1976年に監査実務委員会(APC)が設立されて監査基準の設定を行う。APCは1991年に監査審議会(APB)となり、監査基準書の設定を行った。 ドイツ 大統領令(1931年)で、一定以上の規模の会社は、経済監査士または監査会社から決算書監査人を選任することが義務づけられ、これが現在の決算監査人の原型となった。株式法改正(1937年)では、監査役会が取締役会の監督と選解任権を得た。1950年代に経営組織法で監査役会に従業員が参加する制度ができ、ドイツ経済監査士協会が設立された。経済監査士法(1961年)では会計検査が経済監査士と監査会社の専業となり、1965年の大改正をへて、1980年代から1990年代の株式法・商法の改正によって現行の監査制度が整備された。 フランス 1907年には証券発行の財務開示を求められるようになったが、1920年代から1930年代にかけて金融不祥事が続く。対策として1936年に監査役協会が設立され、会社法改正(1937年)で監査役の独立の明文化、監査手続きの明示、任期の延長、罰則などが定められた。1966年の会社法改正で監査制度も改正され、会計担当の監査役が正式に会計監査役と呼ばれることになった。監査役の独立性が強化され、1969年に全国会計監査役協会が設立された。 アメリカ アメリカでは19世紀末まで会計報告の法的規制がなかったが、鉄道会社の相次ぐ破産や1907年恐慌により、専門家である公認会計士による監査の必要性が高まる。アメリカの工業大国化と証券市場への上場企業の影響もあって会計監査が増加し、ロバート・ハイスター・モンゴメリー(英語版)によってアメリカ初の監査論『Auditing Theory and Practice』(1912年)も書かれた。ウォール街が世界最大の金融センターになるが、他方では狂騒の20年代とも呼ばれる投機的状況で会計責任と会計士が批判されるようになり、経済学者ウィリアム・リプリー(英語版)が「株主の知る権利」(1926年)という記事で企業の不完全な情報開示や監査を批判した。 1929年に大恐慌が起きると、政府の調査委員会が組織された。検事のフェルディナンド・ペコラ(英語版)が委員長を務め、公聴会でモルガン商会(英語版)、ナショナル・シティ銀行(英語版)、チェース・ナショナル銀行(英語版)などの企業の不正が明らかとなった。こうした状況の改善や投資家保護のために証券法(1933年)や証券取引所法(1934年)が施行されて、証券取引委員会(SEC)によって公認会計士の法的監査が確立した。同年にはアメリカ会計士協会(英語版)(AIA、のちのAICPA)が企業会計監査の指針を公表し、監査の基準となる会計原則の作成にはAIAとアメリカ会計学学会が関わった。AIAは、SECから証券市場の監督権限を与えられ、監査における問題点を指摘する役割を得た。AIAは監査手続委員会(CAP)を設立し、米国監査手続書(SAP)の公表を始める。しかしCAPは特定の会計事務所を優遇する姿勢が批判され、監査基準常務委員会(ASEC)に替わり、SAPを集めた監査基準書(SAS)が公表された。ASECもさらに批判されたため、1978年に監査基準委員会(ASB)となった。 日本 日本において企業の会計を扱う専門家の必要性は、1908年に発覚した日本製糖汚職事件(帳簿操作で贈賄金を捻出したとされた)に際して、イギリス人株主(駐日大使のクロード・マクドナルド)が提起したことで認識されたといわれている。 1927年に計理士が会計専門の国家資格として創設され、その業務は「計理士は計理士の称号を用いて会計に関する検査、調査、鑑定、証明、計算、整理又は立案を為すことを業とするものとす」(計理士法第1条)とされて、「検査」「証明」が盛り込まれた。しかし、戦前における計理士は、「計算」をその業務の中心としており(この当時はまだ税理士の資格も存在せず、計理士にはそれらの業務も含まれていた)、監査系の仕事の占める割合は10%にも満たず、監査を中心とする計理士事務所もごくわずかであった。会計監査を主たる業務とする「検査計理士」を新たに創設する法改正運動も計理士側からなされたが、太平洋戦争が終わるまで実現することはなかった。 1948年に計理士法にかわって公認会計士法が公布されることで、財務諸表監査を資格独占業務とする公認会計士が誕生した。計理士も継続して監査業務は可能であったが、証券取引法で企業に義務づけられた監査証明は公認会計士のみが可能となった(計理士資格は1967年3月で廃止)。1950年には、監査基準が発表される。その後、財務諸表監査において不祥事が発生するたびに、それにあわせて財務諸表監査制度はより厳格なものへと変化していった。1965年に山陽特殊製鋼倒産事件における粉飾決算などの影響から個人事務所による財務諸表監査の限界が明らかになり、監査法人制度が導入された。
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