伊福部昭との出会いまでとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 伊福部昭との出会いまでの意味・解説 

伊福部昭との出会いまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 14:23 UTC 版)

今井重幸」の記事における「伊福部昭との出会いまで」の解説

1933年昭和8年)、東京市現・東京都杉並区阿佐谷にて、外交官今井重夫、ひさの次男として生まれる。のちに父・重夫がアメリカサンフランシスコ総領事館領事になったのを機に、重夫はひさとともにアメリカに渡るが、重夫・ひさ夫妻は「子供たち日本人だから、日本教育を受けるべきだ」との教育方針貫き今井を含む2人の子供を東京親戚宅に預けた今井の妹は両親サンフランシスコ滞在時代誕生した今井小学3年時前後から我流曲作り始めた。そのきっかけは、1940年昭和15年)の父・重夫の母(今井祖母)の逝去にある。重夫は公務のため葬儀に臨むことができず、ひさが代理サンフランシスコから日本一時帰国することになったその際東京送った荷物中に重夫がアメリカで購入したアップライト・ピアノがあった。小学2年生8歳時今井は、物珍しさもあって自宅応接間据えられたそのピアノ玩具代わりに弾き戯れた。やがて音を鳴らしているうちに、即興で曲を作るようになっていったという。 1945年昭和20年)、12歳。戦争激しくなり、父親実家がある新潟県高田市(現・上越市西城町疎開する新潟県高田中学校(現・新潟県立高田高等学校)に入学し柔道部入部する(この時期同校には、政府による軍事教育指針に従って柔道部剣道部銃剣術部の3つしかなかったという)。芸術とは無関係な部活動だったが、当時今井実年齢よりも大人びた風貌と体躯を持っていたため、「柔道そのものが苦になることはなかった」と述懐している。 1946年昭和21年)、13歳独学本格的に作曲始める。同年イーゴリ・ストラヴィンスキーの『春の祭典』をラジオ進駐軍放送聴いて衝撃を受ける同年旧制東京都青山中学校現・東京都青山高等学校)に転校。週1、2回、同校非常勤講師として来ていた声楽家畑中良輔授業を受け、さらに畑中個人レッスンを受けるために彼の自宅に通う。2年生のとき、青山中学でクラブ活動解禁されたのを機に、自ら音楽部創設する。同部では編曲指揮のほか、合唱団組織し他校音楽部との合同演奏会企画するなどの活動行なう今井プロデューサーとしての才能萌芽がここに見出せる。 その頃1年先輩ラグビー部所属していた池野成ピアノ伴奏役に抜擢した今井池野との交友その後58年にも及んだまた、5年上の小杉太一郎(のちの作曲家)や、同校演劇部創設した1年上の小池朝雄(のちの文学座俳優)とも友好深めた小池とは青山中時代にすでに演劇作品劇音楽組んでいる。 1947年昭和22年)、14歳エドガー・ヴァレーズの『イオニザシオン』(1931年作)を進駐軍放送聴いたのをきっかけに、さらに創作意欲高まり作曲家志すことを決意する。父・重夫は今井作曲家志望黙認したが、母・ひさは「河原乞食真似事などして」と大反対だったという。 1948年昭和23年)、15歳青山中学の恩師畑中良輔奨めを受け、東京音楽学校(現・東京藝術大学選科入学する青山高校通いながらの登校だった。同校では石桁眞禮生指導のもと、和声対位法など作曲基礎を学ぶ。また、この頃から総合芸術としての演劇舞踊興味掻き立てられ、ソシエテ・デ・ザール(劇作家内村直也中心とし、フランス文学者劇作家小説家の顔も持っていた梅田晴夫ほか、鎌倉アカデミアからの流れを持つ若者たち集まった演劇研究会)に出入りするようになり、演劇演出勉強にも励んだ1949年昭和24年)、16歳。『チェロ・ソナタ』を書き上げて毎日音楽コンクール応募するが、落選する。これが今井楽壇デビュー作品にあたる。 1950年昭和25年)、17歳。交響詩狂人幻影」』をNHK管弦楽コンクール応募するまたもや落選憂き目遭ったが、同作品のスコア見た伊福部昭今井興味抱いたことから、伊福部謦咳に接する機会得た同年暮れ上演され江口隆哉宮操子舞踊団の『プロメテの火』を観覧して大きな衝撃感動受けた今井にとり、その舞踊音楽作曲した伊福部昭はすでに憧れ作曲家であったその際2人引き合わせたのが、今井終生の友である池野成だった。伊福部音楽論創作理念その人間味、スケール大きさ心酔し今井は、鋭意決断して伊福部一門弟となり、池野成小杉太一郎松村禎三三木稔原田甫とともに伊福部映画音楽制作手伝ようになった。この伊福部今井師弟関係終生変わることなく2006年平成18年)の伊福部逝去まで続き2月14日東京桐ヶ谷斎場執り行なわれ伊福部告別式では、松村禎三とともに葬儀委員長務めたこのようにして音楽家として基礎を身につけた今井は、1950年代から本格的な創作活動開始し以来1990年代中期に至るまで、数々テレビ向け音楽作品演劇舞踊向け音楽作品純音楽作品歌曲作品送り出す一方演劇(「まんじ敏幸」名での構成作家演出家)やフラメンコ など、幅広い分野創作活動を展開、数多く業績残した今井重幸(まんじ敏幸)の名は、旧来の楽壇主流派から見れば一種アヴァンギャルド存在映ったものと推察されるが、新たな芸術表現求めアーティストの間で広く知れ渡っていった。こうした既存セオリージャンルとらわれない自由闊達今井芸術活動支えた根幹は、まさに以上のようなデビュー前ピアノ戯れながら自然に作曲し始めた幼少期、自らの興味おもむくままさまざまな芸術表現との関わり持った学生時代など)に培われたと考えられる次項以降今井主な活動分野別整理しそれぞれ編年体にて俯瞰する

※この「伊福部昭との出会いまで」の解説は、「今井重幸」の解説の一部です。
「伊福部昭との出会いまで」を含む「今井重幸」の記事については、「今井重幸」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「伊福部昭との出会いまで」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「伊福部昭との出会いまで」の関連用語

伊福部昭との出会いまでのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



伊福部昭との出会いまでのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの今井重幸 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS