伊福部昭との出会いまで
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1933年(昭和8年)、東京市(現・東京都)杉並区阿佐谷にて、外交官の今井重夫、ひさの次男として生まれる。のちに父・重夫がアメリカ、サンフランシスコ総領事館の領事になったのを機に、重夫はひさとともにアメリカに渡るが、重夫・ひさ夫妻は「子供たちは日本人だから、日本で教育を受けるべきだ」との教育方針を貫き、今井を含む2人の子供を東京の親戚宅に預けた。今井の妹は両親のサンフランシスコ滞在時代に誕生した。 今井は小学3年時前後から我流で曲作りを始めた。そのきっかけは、1940年(昭和15年)の父・重夫の母(今井の祖母)の逝去にある。重夫は公務のため葬儀に臨むことができず、ひさが代理でサンフランシスコから日本に一時帰国することになった。その際、東京に送った荷物の中に重夫がアメリカで購入したアップライト・ピアノがあった。小学2年生、8歳時の今井は、物珍しさもあって自宅の応接間に据えられたそのピアノを玩具代わりに弾き戯れた。やがて音を鳴らしているうちに、即興で曲を作るようになっていったという。 1945年(昭和20年)、12歳。戦争が激しくなり、父親の実家がある新潟県高田市(現・上越市)西城町に疎開する。新潟県立高田中学校(現・新潟県立高田高等学校)に入学し、柔道部に入部する(この時期の同校には、政府による軍事教育の指針に従って柔道部、剣道部、銃剣術部の3つしかなかったという)。芸術とは無関係な部活動だったが、当時の今井は実年齢よりも大人びた風貌と体躯を持っていたため、「柔道そのものが苦になることはなかった」と述懐している。 1946年(昭和21年)、13歳。独学で本格的に作曲を始める。同年、イーゴリ・ストラヴィンスキーの『春の祭典』をラジオの進駐軍放送で聴いて衝撃を受ける。同年、旧制東京都立青山中学校(現・東京都立青山高等学校)に転校。週1、2回、同校に非常勤講師として来ていた声楽家の畑中良輔の授業を受け、さらに畑中に個人レッスンを受けるために彼の自宅に通う。2年生のとき、青山中学でクラブ活動が解禁されたのを機に、自ら音楽部を創設する。同部では編曲・指揮のほか、合唱団を組織し、他校の音楽部との合同演奏会を企画するなどの活動を行なう。今井のプロデューサーとしての才能の萌芽がここに見出せる。 その頃、1年先輩でラグビー部に所属していた池野成をピアノ伴奏役に抜擢した。今井と池野との交友はその後58年にも及んだ。また、5年上の小杉太一郎(のちの作曲家)や、同校で演劇部を創設した1年上の小池朝雄(のちの文学座俳優)とも友好を深めた。小池とは青山中学時代にすでに演劇作品の劇音楽で組んでいる。 1947年(昭和22年)、14歳。エドガー・ヴァレーズの『イオニザシオン』(1931年作)を進駐軍放送で聴いたのをきっかけに、さらに創作意欲が高まり、作曲家を志すことを決意する。父・重夫は今井の作曲家志望を黙認したが、母・ひさは「河原乞食の真似事などして」と大反対だったという。 1948年(昭和23年)、15歳。青山中学の恩師・畑中良輔の奨めを受け、東京音楽学校(現・東京藝術大学)選科に入学する。青山高校に通いながらの登校だった。同校では石桁眞禮生の指導のもと、和声や対位法など作曲の基礎を学ぶ。また、この頃から総合芸術としての演劇・舞踊に興味を掻き立てられ、ソシエテ・デ・ザール(劇作家の内村直也を中心とし、フランス文学者や劇作家・小説家の顔も持っていた梅田晴夫ほか、鎌倉アカデミアからの流れを持つ若者たちが集まった演劇研究会)に出入りするようになり、演劇と演出の勉強にも励んだ。 1949年(昭和24年)、16歳。『チェロ・ソナタ』を書き上げて、毎日音楽コンクールに応募するが、落選する。これが今井の楽壇デビュー作品にあたる。 1950年(昭和25年)、17歳。『交響詩「狂人の幻影」』をNHK管弦楽コンクールに応募する。またもや落選の憂き目に遭ったが、同作品のスコアを見た伊福部昭が今井に興味を抱いたことから、伊福部の謦咳に接する機会を得た。同年暮れに上演された江口隆哉・宮操子舞踊団の『プロメテの火』を観覧して大きな衝撃と感動を受けた今井にとり、その舞踊音楽を作曲した伊福部昭はすでに憧れの作曲家であった。その際、2人を引き合わせたのが、今井の終生の友である池野成だった。伊福部の音楽論、創作理念、その人間味、スケールの大きさに心酔した今井は、鋭意決断して伊福部の一門弟となり、池野成、小杉太一郎、松村禎三、三木稔、原田甫らとともに伊福部の映画音楽制作を手伝うようになった。この伊福部と今井の師弟関係は終生変わることなく、2006年(平成18年)の伊福部の逝去まで続き、2月14日、東京・桐ヶ谷斎場で執り行なわれた伊福部の告別式では、松村禎三とともに葬儀委員長を務めた。 このようにして音楽家としての基礎を身につけた今井は、1950年代から本格的な創作活動を開始し、以来1990年代中期に至るまで、数々のテレビ向け音楽作品、演劇・舞踊向け音楽作品、純音楽作品、歌曲作品を送り出す一方、演劇(「まんじ敏幸」名での構成作家、演出家)やフラメンコ など、幅広い分野で創作活動を展開、数多くの業績を残した。今井重幸(まんじ敏幸)の名は、旧来の楽壇主流派から見れば一種アヴァンギャルドな存在に映ったものと推察されるが、新たな芸術表現を求めるアーティストの間で広く知れ渡っていった。こうした既存のセオリーやジャンルにとらわれない自由闊達な今井の芸術活動を支えた根幹は、まさに以上のようなデビュー前(ピアノと戯れながら自然に作曲し始めた幼少期、自らの興味におもむくままにさまざまな芸術表現との関わりを持った学生時代など)に培われたと考えられる。 次項以降、今井の主な活動を分野別に整理し、それぞれ編年体にて俯瞰する。
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