伊福部昭と三浦淳史
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札幌二中在学中、三浦は伊福部に「音楽をやるなら作曲以外は意味がない」と作曲を勧め、後に伊福部から(自分を作曲界に陥れたという意味で)「メフィストフェレス」と称された。「優れたアジテイター」と自称するメフィストは盛んに活動した。あるとき三浦は、伊福部と共にスペインのピアニストであるジョージ・コープランドのレコードを聴いて感激、文通を始める。三浦が「友人に作曲家がいる」と書き送ったところ「作品を送るように」との返信があり、三浦は「これで曲を送らなかったら国際問題だな」と伊福部を脅迫(むろん冗談であろう)、伊福部はピアノ曲を書かざるを得ない状況に追い込まれてしまった。こうして生まれたのが伊福部の事実上の処女作「ピアノ組曲」(1933年)である。本作は1990年代になって「日本組曲」の題名で管絃楽曲や箏曲に編曲され、伊福部のライフワーク的作品となった。 また、前述の「新音楽連盟」は1934年9月30日に札幌で「第1回国際現代音楽祭」を開催してエリック・サティの作品などを日本初演しているが、このとき三浦は曲目解説を執筆し、そのパンフレットは36ページに及んだ。ここで取り上げられた曲目に独墺系の作品は含まれておらず、主にフランスやスペインの音楽によって構成されていた。こうしたフランス好みは三浦と伊福部に共通しており、その由来について三浦は「わたしがろくにフランス語もできもしないくせに、フランス語やフランス歌曲にひかれるのは、感じやすい若い時代に、フランスのレコードが活躍で、けっしてドイツにひけをとらなかったため、フランス歌曲のレコードが盛んにわが国でプレスされたせいなのである」と述べている。 レコードは三浦と伊福部の家にもあったようだが。、彼らはレコードを聴くために連れだってあちこちに出かけた。当時札幌にあった名曲喫茶「ネヴオ」では、夜の10時ごろになって客足が遠ざかると、店主は現代音楽のレコードをかけてくれたという。彼らはここで、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」などを初めて聴くことになる。彼らはヨーロッパから楽譜や理論書を取り寄せて共に音楽修業に励む仲であった。 伊福部の代表作「シンフォニア・タプカーラ」は三浦に献呈されている。作曲者曰く、この交響曲は十勝平野(アイヌ語でシャアンルルー)に暮らすアイヌへの共感とノスタルヂアが動機となって作曲された。そのシャアンルルーの世界を音にして都会人の三浦に伝えたい、というのが献呈の経緯であるという。「アイヌ語でシャアンルルーと呼ぶ高原の一寒村」に音楽的故郷を持つ伊福部とは対照的に、札幌で育った三浦は伊福部の言う通り都会人であることを自認しており、「人は観念的に大都会を嫌ったりしがちだが、田園に自由ありや否や? ぼくなんかも、大都会に自由ありのほうで」などと述べている。このように対照的な資質をも有する2人であったが、後に伊福部は三浦が亡くなったときのことを回想して「その晩は、音楽を書きたいと思うようになって以来のことがすべて思い出されてしまい、今昔の感に堪えないというか、名状しがたい気分に襲われました」と述べており、ここからは伊福部の音楽形成が三浦と共にあったことが窺われる。 後に三浦はイギリス音楽の紹介者として知られるようになり、伊福部はロシア音楽へ向けて自らの音楽世界を広げていったのであったが、青年期に音楽遍歴を共にした彼らの音楽嗜好には共通するものがあった。先に触れた新音楽連盟の演目からも察せられるように、彼らは独墺系の音楽よりもフランスやスペインの音楽を愛した。三浦に至っては酒もフランスやスペインのものが好きであったらしく、彼の文章には早くから「ボージョレー・ヌーヴォー」の名が頻出し、またシェリーも好んだようである。何度か触れているように、三浦と言えばイギリスだが、意外にもイギリスのエールは苦手だったらしく、文章に出てこないところを見るとスコッチ・ウイスキーもそれほど好まなかったものと考えられる。なお、伊福部も酒豪で知られた。 また、彼らは共に愛煙家でもあった。銘柄は、伊福部がダンヒル、三浦がキャメル。曰く、「何もキャメルでなくたっていいのだが、ぼくの場合は、初めて喫った舶来タバコ──戦前は“洋モク”などという品のない言葉はなかった──に回帰すること、久しいので、タバコといえば、キャメルなのである」 三浦が死去した時、伊福部は「兄の勲も若い頃の音楽仲間も既に亡く、自分だけが残って寂しい限りです」とその死を嘆いた。
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