人物・おいたち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 15:00 UTC 版)
鹿児島県鹿児島市池之上町出身。父増元正一は営林署勤めで、屋久島のスギを搬送する仕事に就いていた。四人兄弟(二男二女)の3番目で次女。「家族会」(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会)の事務局長だった増元照明は末弟でるみ子の2歳年下である。中学・高校時代は卓球部に所属してサウスポーの選手として活躍し、照明も中学では同じ部に入った。幼いときから照明は厳格な父親に叱られ、殴られることも多かったが、るみ子はよく照明を庇い、ときには一緒に泣いてくれる、弟思いの優しい姉であった。鹿児島女子高等学校を卒業後は、鹿児島市内のコカ・コーラで事務員をしていた。照明が北海道大学に合格したとき、るみ子は給料の大半をはたいてSEIKOの腕時計を弟にプレゼントし、照明が北海道から帰省するたびに鹿児島空港まで迎えに行った。兄弟のなかでも、るみ子と照明は特別に仲が良かった。 るみ子以外の3人の兄弟たちにとって父親の正一は怖くて近寄りがたい存在であった。長男の信一は父親と衝突し、高校を卒業すると遠い静岡県で自活する生活を送った。そうした中にあって、るみ子だけは平気で父になついていた。不在がちの父が家に帰るたび、「父ちゃん、お帰り」と率先して声をかけるのは、るみ子であった。とにかく明るい性格で、姉のフミ子は彼女は増元家にとって太陽のような存在だったと振り返っている。父親にとっても格別にかわいい存在だったろうと思われる。 るみ子は琴を習っていた。仕事先はコカ・コーラに3年いたが、残業や日曜出勤も多く稽古事などもできなかったので退職し、鹿児島県庁のアルバイトなどをしながら次の仕事を探した。スーパーマーケットのダイエーが大阪で社員を募集しており、応募も考えたが、姉に「鹿児島におらんね」と言われたのですぐに諦めた。事件があった頃は、船用品を扱う会社に勤めていた。
※この「人物・おいたち」の解説は、「増元るみ子」の解説の一部です。
「人物・おいたち」を含む「増元るみ子」の記事については、「増元るみ子」の概要を参照ください。
人物・おいたち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 18:53 UTC 版)
ドイナ・ブンベアは1950年1月15日、ルーマニアの首都ブカレストに生まれた。ドイナの父はルーマニア軍の軍人で大佐の階級にあったが、ある晩、将軍の夫人と踊っていたとき、彼女を誘惑しようとして失敗し、言い争いになって左遷されたという。母はロシア人で両親ともにルーマニアに住んでいた。彼女は幼いころから父親に虐待を受けていたので、早く家を出たがっていた。彼女には年の離れた弟ガブリエル (Gabriel) がいる。 ドイナは当初、ブカレストの美術大学に通っていたが、1970年、大学1年生のときにイタリア人旅行者と出会って彼と結婚し、ローマで絵の勉強を続けた。しかし、彼女の流産を機に離婚し、その際、ドイナは10年間余裕をもって生活できるだけの慰謝料を入手し、その後イタリアの美術学校に通って卒業した。ドイナは、1973年と1976年の2回、ルーマニアに一時帰国しており、1976年の帰国では当時9歳の弟ガブリエルとともに過ごした。チャールズ・ジェンキンスは、確かに彼女はすばらしい美術の才能を持っていて、彼女が描いた絵画は見事なものだったと証言している。
※この「人物・おいたち」の解説は、「ドイナ・ブンベア」の解説の一部です。
「人物・おいたち」を含む「ドイナ・ブンベア」の記事については、「ドイナ・ブンベア」の概要を参照ください。
人物・おいたち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 22:33 UTC 版)
「藤田進 (拉致被害者)」の記事における「人物・おいたち」の解説
小学生時代には競泳の全国大会で活躍し、川口市立川口西中学校では生徒会長を務めた、学業優秀でスポーツ万能な生徒であった。高校は、県下有数の進学校として知られる埼玉県立浦和高等学校に進んだ。妻を早くに失い、進、隆司の2人の男子を男手1つで育てた父の春之助にとっては自慢の息子であったが、進が失踪してからは、育て方を間違えたのではないかと苦悶することもあったという。家庭では寡黙なタイプであり、特技はギターを演奏することであった。大学は東京都小金井市の東京学芸大学教育学部に進んだ。 1976年(昭和51年)2月7日朝6時半すぎ、以前より周囲に話していた新宿区の警備員のアルバイトに出かけると自宅に言い残し、そのまま帰らず行方不明となった。あとで新宿区内の警備会社すべてに電話で問い合わせたが該当者はいなかった。また、藤田進については在日朝鮮人の金萬有が経営する東京都足立区の西新井病院で監禁されたという証言がある。それによれば、藤田進は「保護室」と称される監禁部屋で薬剤を投与されて一時は意識が朦朧となり、また、身動きの不自由な保護服を着せられていた。数日して新潟港に移送され、万景峰号に乗せられて北朝鮮に連れていかれたという。 他の失踪理由が存在しない、拉致被害者の集中する川口市の出身である、失踪が三鷹市で警備員をしていた久米裕の拉致事件(宇出津事件)のあった前年にあたるなどの状況から拉致の疑いが濃いと指摘されてきたが、2004年(平成16年)に脱北者が北朝鮮から持ちだした拉致被害者とみられる日本人の写真が、鑑定の結果、失踪前の藤田進本人の写真と同一人物である可能性が極めて高いことが判明した。写真の提供者は、藤田進は平安南道東北里(現在の平壌直轄市龍城区域於隠洞)にいると述べているという。特定失踪者問題調査会は2004年1月28日、埼玉県警察に告発状を提出した。 横田めぐみらの目撃証言で知られる元北朝鮮工作員の安明進もまた、市川修一とよく一緒にいて親しくしていた藤田進を金正日政治軍事大学で目撃したことを証言している。それによれば、1990年の7月か8月、安明進は市川修一の差し出したタバコ(マイルドセブン)を藤田進から受け取った。安明進によれば、藤田進は身長172センチメートルくらいで顔が小さく、外見は40歳代前半のようにみえたという。眼鏡をかけており、香水の匂いがした。また、市川修一がシャープな印象であるのに比べれば柔和なイメージであったという。
※この「人物・おいたち」の解説は、「藤田進 (拉致被害者)」の解説の一部です。
「人物・おいたち」を含む「藤田進 (拉致被害者)」の記事については、「藤田進 (拉致被害者)」の概要を参照ください。
人物・おいたち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 16:45 UTC 版)
「松本京子 (拉致被害者)」の記事における「人物・おいたち」の解説
1948年(昭和23年)9月7日、鳥取県米子市に生まれた。中学卒業後、縫製工場に就職した。趣味は旅行、また、歌手の舟木一夫のファンで、公演によく出かけていたという。子ども好きでよく近所の子どもたちと遊んでいた。京子の兄によれば、母親の言うことはよく聞き、休日には掃除をしたり、母親の畑を手伝うなど「どこにでもいるような娘」だったという。失踪当時、彼女は週に3回、編み物教室に熱心に通っていた。
※この「人物・おいたち」の解説は、「松本京子 (拉致被害者)」の解説の一部です。
「人物・おいたち」を含む「松本京子 (拉致被害者)」の記事については、「松本京子 (拉致被害者)」の概要を参照ください。
- 人物・おいたちのページへのリンク