人物および活動
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「山田一成 (政治活動家)」の記事における「人物および活動」の解説
1991年4月20日、山田率いる国家社会主義日本労働者党、自然社会主義協会代表、篠原節、世界戦略研究所代表、瀬戸弘幸らと共にゆるやかな連合体として国家社会主義者同盟を設立するも後に関係を解消している。当時の山田は、瀬戸の回想によれば「暴走族の親分みたいだった」という。山田は篠原よりも二十歳ほど、瀬戸よりも十歳ほど年下で、ネオナチ極右活動家のなかではいわば第三世代に当たる。そのため篠原や瀬戸の場合とは異なり、既成右翼や新右翼との関係をめぐる濃密な体験をそこに見て取ることはできない。新右翼との接点はそれなりにあり、統一戦線義勇軍と共闘していたことなどもあるが、しかしその考え方は新右翼的なものではなく、ましてや既成右翼的なものでももちろんなく、徹頭徹尾ネオナチ的なものであった。日本の右翼・民族派の思想や文化をむしろ忌避し、代わってヨーロッパの右翼・極右の考え方を導入するところから出発した新しい時代の右翼運動家だったと言えるだろう。 その思想はラディカルで、より正確にいえばネオナチ的というよりもむしろナチズム的なものだった。つまりそこに見られるレイシズムは、福祉ショーヴィズム(福祉排外主義)の考え方に基づく現代的レイシズムよりも、むしろ生物学上の信念に基づく古典的レイシズムの性格を強く持つものだった。いいかえれば現代版レイシズムの論理によって古典的レイシズムの感情を粉飾しようとする構えなど持たない、いわばむき出しのレイシズムだった。。そのためそこでは「ツラン人種」としての日本人の優越性という観念に基づき、排外主義や優生思想という考え方が徹底的に追い求められるとこになる。人種隔離政策を断行することによって民族浄化し、人種改良に取り組んでいくべきだという主張を山田ははっきりと訴えていた。 また旧来の右翼・民族派の場合とは大きく異なり、海外展開にも積極的で、ドイツのミヒャエル・キューネンやカナダのエルンスト・ツンデルと同志関係を結んだり、さらにヨーロッパばかりでなくアメリカやロシアなども含め、世界各国のネオナチ組織と同盟関係を結んだりするなど、ネオナチの国際的なネットワークに連なろうとする姿勢を強く打ち出していた。 篠原がいわばヴィジョナリストであり、瀬戸がストラテジストだったとすれば、『別冊宝島 日本が多民族国家になる日』記載の街宣活動や脅迫文送付などから、山田はむしろ根っからのアクティヴィストだったと位置付けることもできるだろう。そうした意味からすれば、彼ら(篠原、瀬戸、山田)三人のなかでは行動右翼的な傾向を最も強く持った人物だったと言えるだろうが、しかし一方で、そうした傾向を旧来の右翼・民族派に固有のものとして忌み嫌う傾向を最も強く持った人物でもあった。 伊藤の指摘するとおり、篠原や瀬戸は民族主義の理念に基づいた農本主義・自然保護運動ディープエコロジー運動へと変遷してゆく。つまりナチスの「血と土(Blut und Boden)」の土の部分を信奉したのに対して、山田はより重要視されるべき血としての血統・人種に重きを置いたのである。国家社会主義(Nationalsozialismus)はもっぱら人種に関する諸認識から生まれた一つの民族的政治理論であるというアドルフ・ヒトラーの言葉を体現していたと言えよう。
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