人物 – 剣道家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 07:35 UTC 版)
幕末の北辰一刀流玄武館四天王の一人森要蔵の門弟野間好雄を祖父に、森要蔵の娘を祖母にもつ父・清治は、剣道こそ人格確立と修養の最善の道と信じ、野間道場を設立した。その関係から恒は幼少より剣の道を叩き込まれた。清治は甥の森寅雄も引き取って養育していたが、彼もまた長じて有名な剣道家となる。 恒は幼い頃はひ弱でおどおどした性格だったが、努力家で、毎朝夕に1時間は稽古し、成長するに従って休日は千葉・伊香保・伊東の道場で5〜6時間を稽古に費やした。また時間が空くと高野佐三郎の修道学院に通った。この頃には相手を突き飛ばしてガラスを割ることもあるほど強くなっていた。 1929年(昭和4年)、大日本武徳会から剣道精錬証を授与される。 1933年(昭和8年)の陸軍武道大会で優勝。翌1934年(昭和9年)には皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会の府県選士の部で優勝して「昭和の大剣士」と謳われた。この東京予選の決勝の相手は奇しくも従弟の森寅雄だった。 病院嫌いだったらしく、死因となった大腸癌についても、1937年(昭和12年)頃から既に胃腸をおかしくしていたにも関わらず、「逆療法」と称してビールやステーキを大量に摂取するといった行動を繰り返していたという。同年10月に胃潰瘍の疑いで入院し手術を受けるが、退院後も肉類を食べ続けるなど胃腸に負担をかける生活を続けていた。 1938年(昭和13年)7月、すでに病篤い恒に大日本武徳会から剣道教士号が授与されている。
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