ワットと共同事業
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「マシュー・ボールトン」の記事における「ワットと共同事業」の解説
「ワットの蒸気機関」も参照 ソーホー製作所は水力では必要な動力をまかなえず、特に夏季は導水路の水位が下がるためエネルギー不足は深刻だった。そこで水車用水を貯水設備に循環するにも、それ自身で動力を作り出すにも蒸気機関を採用すればよいとボールトンは考えると、1766年から手紙でワットを説得すると2年後に面談、3年目の1769年に蒸気機関の運転効率をさらにあげるワット独自の熱交換式復水器[訳語疑問点]を発明して特許を取得。ボールトンはこの発明は自社工場に役立つばかりか、エンジンの製造事業で利益を得られると確信する。 特許は取ったものの、ワットはエンジンを実用の段階まで開発しないまま、1772年には次の発明に取り掛かる。ボールトンはワットと共同開発を進めた工学研究者ジョン・ローバック博士に貸した1,200イギリスポンドを回収できなくなり、ローバックからワットの特許に対する3分の2の権利を引き取り弁済に当てることに同意。ところがボールトンの共同経営者のフォザギルは事業の権利ではなく現金を受け取ると、エンジン開発にまったく関わろうとしなかった。ボールトンにとってもワットが発明をさらに磨かない限り、引き受けた権利に何のうまみもない。そのころ従来型のニューコメンの蒸気機関は鉱山でわき水のくみあげに使われ、石炭の燃費が悪く坑道が長く伸びるにつれ排水能力が不足。ワットの発明の噂が広がると、新しい蒸気機関が市販されるのではないかと関心を集め、従来型の蒸気機関の買い控えを招いたのである。 ワットの才能を褒めちぎった効果が出てロシア政府から雇い入れたいとの打診があると、ボールトンは辞退するようワットを説き伏せた。特許をとってから5年後の1774年にようやくバーミンガムに呼び寄せ、翌年、共同事業を立ち上げている。その1775年のうちにワットの特許のうち6件は取得してから14年間経ち、手付かずのまま期限切れになるところだったのだが、ボールトンはロビー活動を通じてワットの特許が1800年まで延びるよう、特許期間の延長の法令を議会に作らせる。そのかたわら蒸気機関の改良を進めて鉄加工の匠ジョン・ウィルキンソンの貢献もあり、製品を完成させた (ウィルキンソンはルナー・ソサエティ会員 ジョセフ・プリーストリーと義理の兄弟) 。 1776年に蒸気エンジン2基を完成し、共同事業としてウィルキンソンに1基、ウェスト・ミッドランズ州ブラックカントリーのティプトン鉱山に1基を納品、どちらも正常に稼動してよい宣伝になった。次つぎに注文を受けるとボールトンとワットはあちこちに蒸気エンジンを据え付け、ただしエンジンの完成品はほとんど製造せず注文主に数箇所の製作所から必要な部品を購入させるとソーホーの技術者立会いの下、設置場所でエンジンを組み上げた。利益は蒸気機関を貸し出す形で契約を結び燃費向上の歩合で取る方式を考え出した。従来のエンジンと燃費を比較、節約できた経費の3分の1を向こう25年間受け取るとしたのである。しかし鉱山主は鉱山から出た商品価値の低い石炭を使ってエンジンを動かして燃費を採炭の原価に抑えてしまったため、歩合の設定をめぐって争いになる。また鉱山主は一旦エンジンを設置すると自分の設備だと言い張って毎年の契約更新料の支払いをしぶり、ワットの特許を廃止するように議会に請願すると脅したのである。ボールトンたちのエンジンの主な市場は鉱物資源の豊かなコーンウォール郡で、取引先は鉱山が多かった。しかし他社との熾烈な競争に加えてウェールズから輸入する石炭価格の高騰など地元の鉱業特有の問題が起こり、年に数ヶ月、最初はワットが、のちにはボールトンが設置場所に立ち会って鉱山主とのトラブルを避けようとする。1779年に雇用した技術者のウィリアム・マードックにエンジン据え付けの現場監督を任せることができてからは、ワットとボールトンはバーミンガムに残って開発に専念できるようになった。 鉱山で使用するエンジンポンプは大当たり、1782年に同社は工場や製粉所での使用に合わせてワットのエンジンをロータリー方式に改良する計画を立てた。前年の1781年、ウェールズ訪問でボールトンは強力な水力方式の銅の圧延機を見学しており、夏に水が枯れると頻繁に使用できないと聞くと蒸気機関なら問題はないと切り替えを説得している。ボールトンはワットに手紙でエンジンの改良を促し、イングランドでエンジンポンプの市場拡大はそれ以上は望めないと警告した。「コーンウォール規模の市場は鉱業界にはもうありません。われらのエンジンの売り込み先に望みがあるとするなら、最も可能性の高い分野は製粉所でありエンジンの改良こそ肝要であります」。完成しても注文はほとんどないのではないかと心配しながらもワットは1782年の大半を改良作業に費やし、年末に新型エンジンが完成。すると最初の受注からすぐに製粉所や醸造所の注文がいくつも相次いだ。 ジョージ3世はロンドンのウィットブレッドの醸造所を見学した折にエンジンを褒めている。ロンドンのアルビオンミルに新設したエンジン2基をデモンストレーションに使うと、ボールトンは小麦を1時間に150ブッシェル製粉してみせる。製粉機は経費がかさんで利益が薄かったものの、歴史家ジェニー・アグロウによると新製品の「実に"革新的な"売り込み方法」であり、歴史家サミュエル・スマイルズの長年の研究では1791年に火災で工場が閉鎖されるまで製粉機の人気は「広範囲に拡散」し、ロータリーエンジンの受注は国内ばかりかアメリカや西インド諸島からも次つぎに舞い込んだという。 1775年から1800年の間に会社が製作したエンジンはおよそ450基。他社は同じ時期にコンデンサ独立式のエンジン[訳語疑問点]開発競争から手を引くと、燃費は悪くとも安価でワットの特許に制限を受けない蒸気機関#ニューコメンの蒸気機関を1,000基前後、製造している。ボールトンはジェイムズ・ボズウェルという作者がソーホー製作所を見学したときに自慢気に話したのである。「つまりですな、全世界が望んでいるもの、POWERを販売しているわけです」。効率的な蒸気機関の開発は大規模な生産に結びつき、マンチェスターのような工業都市の登場を迎える。
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