ガーシュウィン:パリのアメリカ人
英語表記/番号 | 出版情報 | |
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ガーシュウィン:パリのアメリカ人 | An american in paris | 作曲年: 1928年 |
作品解説
ジャズとのクロスオーヴァー、映画音楽、数々のヒット・ミュージカル。幼いころに楽器屋で客相手にピアノの試演をしていた、というところまで遡れそうな市井の感性。
《パリのアメリカ人》《ラプソディー・イン・ブルー》といった作品が持つ具体性、普遍性、そして娯楽性を説明するのにこういったキーワードは有効かもしれないが、何かしらの欠落が拭えない。そもそも少年期に出会ったジャズを始めとするブルースでありオペレッタであり、自身が魅入られた音楽を端から作曲語法として包括し、「アメリカ」というフィルターを通して鳴らしてみせたところがガーシュウィンの魅力であり、それまでの作曲家と一線を画している所以でもある。
この作品でもガーシュウィンが目の当たりにした1920年代パリの町並みは活力豊かに描かれている。ひとりのアメリカ人の周りを目まぐるしく時間が取り囲む。雑踏と裏通り、昼と夜、冒頭の性急なリズムは都会特有の行き急ぐ感覚、随所でけたたましく鳴らされるホーンはタクシーのクラクション。生活のいち場面を切り張りしながら一日のサイクルに合わせ作品の構成を組み立てる手法は見事である。
これは決して、彼の即興能力の賜物であるとか、劇音楽の手法を転用しているというだけでは説明のつくものではない。ラヴェル、ドビュッシー、フランス6人組といった20世紀フランス音楽に対するガーシュウィンなりの咀嚼の結果である。また、同時代の新ヴィーン楽派や新古典主義の観察を経てきた成果と言えるかもしれない。時に我流とさえ言われる彼のオーケストレーションだが、発想の展開のさせ方はこうした同時代の作曲家たちのそれが重なってくる。
偶然の出会いだったが、ガーシュウィンは突然の病魔に襲われるまで晩年の数年間、シェーンベルクと親密な時間を過ごした。シェーンベルクはガーシュウィンに向けられていた「ジャズにかぶれたクラシック作曲家」或いは「(黒人が生み出した)ジャズを用いて語る白人」といった表層的な風評を取り払い、没後、彼の音楽を真にオリジナルな芸術音楽として位置づけた。探求に探求を重ねて12音技法を発見した彼にとって、ガーシュウィンの新しい音を掴み取る感性は羨望に近いものがあったであろう。
パリのアメリカ人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/03 05:10 UTC 版)

「パリのアメリカ人」(An American in Paris)は、ジョージ・ガーシュウィンが作曲した交響詩である。「ラプソディ・イン・ブルー」に次いで、ガーシュウィンの有名な器楽曲であり、シンフォニックジャズの一例である。
概要
ニューヨーク・フィルの委嘱を受けて1928年に発表された。1920年代に過ごしたパリの活気に触発されて作曲された大掛かりな標題音楽であり、いわば音楽によるフランス紀行文である。特定の物語があるわけではないが、自動車のクラクションの利用に認められるように現代の都会の生活や喧騒が、ウィットを交えて楽しく描き出されている。ちなみに本作のニューヨーク初演のために、ガーシュウィンはパリのタクシー用のクラクションをアメリカ合衆国に持ち帰った。初演は1928年12月13日、カーネギーホールにおいてウォルター・ダムロッシュ指揮・ニューヨーク・フィル演奏により行われた。
初稿と改訂稿(フランク・キャンベル=ワトソンによる改訂版)があり、こんにち頻繁に演奏されるのは後者である。オーケストラの通常の楽器編成に加えて、チェレスタやサクソフォーンのような近代的な楽器も利用されている。
楽器編成
関連項目
- 巴里のアメリカ人(ミュージカル映画)
外部リンク
パリのアメリカ人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:38 UTC 版)
この地に集まった芸術家コミュニティのほとんどが生存のためにぎりぎりの生活を営んでいた頃、ニューヨークから来たペギー・グッゲンハイム、イーディス・ウォートン、ボストンから来たハリー・クロスビー、サンフランシスコから来たベアトリス・ウッドなどアメリカの社交界の名士たちがモンパルナスの狂騒や芸術家たちの創造性の虜になっていた。彼らアメリカ人の中には出版社を立ち上げるものもいた。ロバート・マッカルモン(Robert McAlmon)、マリア(Maria Jolas)とユージンのジョーラス(Eugene Jolas)夫妻はパリに来て国際的な文芸雑誌『トランジション(Transition)』を創刊した。ハリー・クロスビーとカレス・クロスビーの夫妻は「ブラック・サン・プレス」を1927年に創立し、後に有名になった小説家たち、例えばD・H・ローレンス、ジェイムズ・ジョイス、アーネスト・ヘミングウェイ、ウィリアム・フォークナー、ジョン・ドス・パソス(John Dos Passos)、ハート・クレイン(Hart Crane)、アーチボルド・マクリーシュ(Archibald MacLeish)、ケイ・ボイル(Kay Boyle)、ドロシー・パーカー(Dorothy Parker)などの作品を出版した。アメリカのジャーナリスト、ビル・バード(Bill Bird)も自分の趣味で作った「スリー・マウンテン・プレス」社からエズラ・パウンドらの本を出版し、イギリスから来たナンシー・キュナード(Nancy Cunard)が乗っ取りアワーズ・プレス(Hours Press)に変えるまで経営を続けた。 マックス・エルンストと結婚したペギー・グッゲンハイムのような名士はパリ都心の高級住宅地に住んだが、モンパルナスのさまざまなアトリエを頻繁に回り、将来名作と呼ばれるであろう作品を次々買い求めた。これらは現在、ヴェネツィアのペギー・グッゲンハイム美術館に展示されている。 多くのアメリカ人がパリにやって来た理由の一つに、20世紀初頭のフランに対する米ドルの為替騰貴も挙げられる。
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