ジャンヌの軍事指揮能力とは? わかりやすく解説

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ジャンヌの軍事指揮能力

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:11 UTC 版)

ジャンヌ・ダルク」の記事における「ジャンヌの軍事指揮能力」の解説

「... ここにいる乙女八日間ロワール川に陣取っていたイングランド軍を打ち破り、完全に駆逐しました。イングランド兵士戦死あるいは捕虜となり、戦い意思失ってます。サフォーク伯ラ・ポール兄弟タルボット卿、スケールズ卿、ファストルフ卿ら、イングランド貴顕指揮官たちが敗北したことは紛れもない事実なのです」 -- ジャンヌ1429年6月25日トゥルネー市民送った書簡。Quicherat V, pp. 125–126. ジャンヌそれまでフランス軍指揮官たちが採用していた消極的な作戦一新したジャンヌ参戦するまでのオルレアン包囲戦では、オルレアン守備軍が積極策を試みたのはわずかに一度だけであり、この作戦大失敗終わっていた。 ジャンヌオルレアン到着後の5月4日フランス軍攻勢出てオルレアン郊外で東のサン・ルー要塞攻略し5月5日にはジャンヌが軍を率いて放棄されていた南のサン・ジャン・ル・ブラン要塞占拠した翌日開かれた作戦会議ジャンヌデュノワの慎重策に反対し、イングランド軍へのさらなる攻撃主張している。デュノワこれ以上戦線拡大を防ぐために、攻略軍が布陣する市街城門閉鎖命令したが、ジャンヌ市民兵卒たちを呼び集め当地行政責任者に城門開けさせるように働きかけることを命じた結局ジャンヌはある一人大尉の手引きでこの市街抜け出し、サン・オーギュスタン要塞攻略成功している。 この夜にジャンヌ自身参加していなかった作戦会議で、援軍到着するまでこれ以上軍事行動見合わせることが決められたことを知ったしかしながらジャンヌはこの決定無視し5月7日イングランド主力拠点である「レ・トゥレル」への攻撃主張したジャンヌ行動をともにしていた兵士たちは、ジャンヌが首に矢傷負ったにもかかわらず戦列復帰して最終攻撃指揮執るのを目の当たりにしてから、ジャンヌのことを戦の英雄だと認識していった。 オルレアンでの劇的な勝利が、さらなるフランス軍の攻勢発端となったイングランド軍はパリの再占領ノルマンディー攻略目指していた。予想上の勝利をあげた直後ジャンヌシャルル7世説き伏せて自身アランソン公ジャン2世副官地位につけることと、ランスへと通じロワール川沿いの占拠してシャルル7世ランスでの戴冠幕開けとするという作戦対す勅命得たしかしながらランスへの進軍は、ランスまでの道程パリへ道程のおよそ2倍であることと、当時ランスイングランド占領地中心部にあったことから無謀ともいえる作戦提案だった。 イングランド軍に勝利してオルレアン解放したフランス軍は、6月12日ジャルジョーの戦い6月15日モン=シュル=ロワールの戦い6月17日にボージャンシーの戦いと、イングランド軍に占領されていた領土次々と取り戻していった。ジャンヌの上ジャン2世は、ジャンヌ立案するあらゆる作戦をすべて承認した。そして当初ジャンヌ冷遇していた指揮官であるデュノワたちもジャンヌオルレアンでの戦功認めジャンヌ支持者となっていった。ジャン2世はジョルジョー解放戦で、間近で起こる砲撃予見して自身生命救ったジャンヌ高く評価していた。このジョルジョー解放戦では、攻城梯子を登っていたジャンヌの冑に投石器から発射され石弾命中して梯子から転落しそうになったこともあった。 戦役中、フランス軍続々援軍に加わる将官現れギー14世・ド・ラヴァル英語版)・アンドレ・ド・ラヴァル兄弟アルテュール・ド・リッシュモンなどが参加したリッシュモン宮廷疎まれ遠ざけられていたため、復帰阻止したいシャルル7世側近命令ジャンヌらに届けられていた。しかし、他の武将たちリッシュモン力量買っていたためジャンヌに彼と協力することを説得受け入れたジャンヌリッシュモン会見して協力誓った6月18日ジョン・ファストルフ卿が率い援軍加わったイングランド軍と、フランス軍との間にパテーの戦い戦端開かれたフランス軍大勝したこのパテーの戦いイングランド軍が大勝した1415年アジャンクールの戦いとは比較されることがあるパテーの戦いではリッシュモン指揮のもと、ラ・イルジャン・ポトン・ド・ザントライユフランス軍前衛が、イングランド軍が誇る長弓部隊準備が整う前に攻撃開始した。これによりイングランド軍は総崩れとなり、イングランド主力壊滅的被害受けて多く指揮官戦死あるいは捕虜となった。ファストルフはわずかな護衛とともに戦場離脱したが、のちにこの屈辱的な敗戦責めを負わされている。一方でこのパテーの戦いフランス軍被った被害最小限に留まった。 「ブルゴーニュ大公。私は伏して貴君心からお願いいたしますこれ以上聖なるフランス王国戦い続けるのはおやめください。聖なる王国国土城塞から、一日早く軍を退いていただけますよう。そして私は、平和を愛すフランス国王名代として、国王名誉にかけて貴君との和平望んでいることをお伝えします」 -- ジャンヌ1429年7月17日ブルゴーニュ公フィリップ3世宛てた書簡。Quicherat V, pp. 126–127. フランス軍6月29日ジアンシュールロワールからランス向けて進軍開始し7月3日にはオセール占領していたブルゴーニュ公国軍が条件つき降伏申し出ている。ランスへの進軍にあった都市抵抗せずフランス忠誠誓いシャルル7世フランス領土回復していった。シャルル7世フランス王継承剥奪する条約締結されトロワも、4日間の包囲の末に戦わずして降伏したまた、トロワに近づいたころのフランス軍抱えていた問題食糧補給不足だった。この問題解決貢献したのはトロワ世界終末説いていたブラザー・リチャードという巡礼修道士で、リチャード成長早い豆類栽培してフランス軍給するよう、トロワ市民たちを説得することに成功した。そして豆が食べられるようになったころに、食料不足悩んでいたフランス軍トロワ到着したのであるランス7月16日フランス軍城門開きシャルル7世戴冠式が翌17日の朝に執り行われた。ジャンヌジャン2世パリへ進軍することを主張したが、シャルル7世たちはブルゴーニュ公国との和平条約締結交渉優先しようとしたしかしながらブルゴーニュ公フィリップ3世善良公)は和平交渉反故にし、短絡的な作戦ではあるが、パリ守り固めるためにイングランド軍に援軍送ったブルゴーニュ公国との和平交渉失敗したフランスパリへ兵を進めることを決め進軍途上都市平和裏陥落させながらパリ近郊迫ったイングランド軍の司令官ベッドフォード公ジョン率いイングランド軍とフランス軍対峙したのは8月15日で、戦線そのまま膠着状態となったフランス軍パリへ攻撃開始したのは9月8日である(パリ包囲戦)。この戦いでジャンヌ石弓の矢が当たって脚を負傷したが、最後まで戦場残って軍の指揮直接執り続けたしかしながらジャンヌ9月9日の朝に、ギュイーヌ伯ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユの意を汲んだシャルル7世からの撤退命令受けた多く歴史家が、シャルル7世寵臣宮廷侍従長だったラ・トレモイユシャルル7世戴冠後に犯した政治的失策非難している。10月ジャンヌサン=ピエール=ル=ムイエ包囲戦英語版)で軍に復帰した続いて11月から12月ラ=シャリテシュールロワール包囲戦英語版)にも従軍したがこの包囲戦失敗している。そして、12月29日ジャンヌとその家族貴族叙せられた。 ジャンヌ王太子シャルル7世が出会ったシノン城大広間跡。シノン城唯一現存している塔がジャンヌ記念博物館になっているヤン・マテイコ描いた1429年ジャンヌランス進駐ジャンヌ戦場となった現存する数少ない城塞ボージャンシー城(英語版)。フランス軍都市の城壁打ち破ると、イギリス軍画面右上に見える塔に立て篭もった。 歴代フランス王戴冠式挙行したランスノートルダム大聖堂1481年火災遭っており、現在見られる尖塔火災後増築されたもの。 ドミニク・アングル1854年描いたシャルル7世戴冠式ジャンヌ・ダルク』(ルーヴル美術館パリ)。長い髪スカートなど、ジャンヌ女性らしさをより強調した作風となっている。

※この「ジャンヌの軍事指揮能力」の解説は、「ジャンヌ・ダルク」の解説の一部です。
「ジャンヌの軍事指揮能力」を含む「ジャンヌ・ダルク」の記事については、「ジャンヌ・ダルク」の概要を参照ください。

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