シュパンダウ刑務所
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「コンスタンティン・フォン・ノイラート」の記事における「シュパンダウ刑務所」の解説
ノイラート含む禁固刑を受けた7人の戦犯たちはしばらくニュルンベルク刑務所で服役を続けていたが、1947年7月18日にDC-3機でベルリンへ移送され、護送車でシュパンダウ刑務所に送られてそこに投獄された。 同刑務所の米軍管理官ユージン・バード(en)大佐はノイラートの第一印象について「彼はとても丁寧で老紳士と言った印象を受けた。優れたマナーを身につけているようだった。二・三言話すだけの時でも微笑を絶やさなかった」と語っている。 ノイラートはチョコレートが好きで刑務所の所員の誰かを取り込んだらしくチョコレートを隠し持って食べていた。刑務所側はやがてこれに気付いたが、いくらノイラートを問い詰めてもチョコレートを渡した人物の名前を明かそうとはしなかった。 またノイラートはかなり健康を害しており、やがて作業はできなくなった。言語症にもなった。刑務所の医師もノイラートが早足で歩くのは危険であり、階段を下りる時にはアルベルト・シュペーアやバルトゥール・フォン・シーラッハなど若い囚人に支えさせたほうがよいと述べていた。 1953年7月には心臓発作で危険な容態に陥った。更に1954年9月2日にも心臓発作で危篤状態に陥り、ノイラート死去に備えて刑務所内に埋葬する準備が進められたが、奇跡的にノイラートの容態は持ち直した。アメリカ・イギリス・フランスはかねてから彼を釈放するよう求めていたが、ソ連が反対し続けたせいで実現していなかった。しかしこの件の後にソ連が突然釈放に同意したため、ついにノイラートの釈放が決定した。1954年11月6日にノイラートは釈放された。 その2年後、隠棲先のエンツヴァイヒンゲン(de:Enzweihingen)で喘息の発作に襲われて死去した。
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シュパンダウ刑務所
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「バルドゥール・フォン・シーラッハ」の記事における「シュパンダウ刑務所」の解説
シーラッハ含む禁固刑を受けた7人の戦犯たちはしばらくニュルンベルク刑務所で服役を続けていたが、1947年7月18日にDC-3機でベルリンへ移送され、護送車でシュパンダウ刑務所に送られてそこに投獄された。シーラッハの囚人番号は1番だった。 刑務所内ではシーラッハはフンクと仲が良く、シュペーアやヘスとはほとんど没交渉だったが、刑務所内が彼の他にこの二人だけになってしまうと二人に歩み寄るようになったという。 刑務所のアメリカ管理官ユージン・バード大佐によると刑務所の中でシーラッハは傲慢でおしゃべりだったという。彼はバード大佐に「私は今まで尊敬できる人物にあったことがない。ヒトラーも含めてね」「今日はヒトラーの暗殺未遂事件記念日だが、ヘマをするのは陸軍の専門だ。実に立派な陸軍だ!爆弾入りの鞄を置くなんて臆病なやり方は聞いたことがないよ。そのおかげで何千人という人々が死に追いやられた。一番勇敢な方法と言ったらヒトラーの頭にピストルを突き付けることだったろうに」「一つお聞かせしよう。私は総統の『信頼すべき人物』のリストに載っていた。彼の部屋に入るときには、みな身体検査されたが、私はそんなことをされない人間の一人だった。だから私はピストルを忍ばせて、それを使うこともできたんだよ!」と語っていたという。 1965年1月25日に網膜剥離で失明に近い状態になって倒れた。アメリカ・イギリス・フランスは病院へ搬送して目の手術することを求めたが、ソビエト連邦がそれに強硬に反対した。他の国に「人道的になれ」と言われてもソ連は一切聞き入れなかった。そのためシーラッハは将来的に盲目になることを覚悟し、「後1年で釈放だから、私が家に戻って周囲になじむまで視力が残っているといいのだが。寝室や階段や家具になじむのに三週間は必要だろう。盲目になる前までにやりたいことは孫たちに会うことだけだ」と述べた。アメリカの粘り強い交渉の末、ついにソ連が折れて、5月22日になってシーラッハは刑務所外の病院で手術できた。このおかげでシーラッハは盲目にならずにすんだ。その後、手術した医師が刑務所に診察に訪れた際、シーラッハはその医師の手を握って「私の目を治してくれてありがとう」と礼を言ったが、囚人が他の人と握手するのは規則で禁じられており彼は懲罰を受けた。彼は「目を治してくれた人にお礼も言えないのか」と不満を述べた。 一方妻ヘンリエッテは夫の服役中、一人で様々な仕事をして生計を立てて、子供たちを育てた。1950年11月初めにシーラッハとヘンリエッテは離婚している。しかしヘンリエッテはその後も元夫シーラッハのために減刑嘆願を行った。結局減刑はなく、シーラッハは1966年10月にシュペーアとともに刑期満了で釈放された。
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シュパンダウ刑務所
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「ルドルフ・ヘス」の記事における「シュパンダウ刑務所」の解説
1947年7月18日から他の禁錮刑判決を受けた戦犯たち(ヘス以外にバルトゥール・フォン・シーラッハ、アルベルト・シュペーア、カール・デーニッツ、コンスタンティン・フォン・ノイラート、ヴァルター・フンク、エーリッヒ・レーダー)とともにシュパンダウ刑務所で服役することになった。 同刑務所は米英仏ソ四国の共同管理で月ごとに看守が交代した。イギリスが1月・5月・9月、フランスが2月・6月・10月、ソ連が3月・7月・11月、アメリカが4月・8月・12月を担当した。ヘスの囚人番号は一番後の7番であった。ヘスは刑務所に入る際に飛行服とヘルメットとブーツの保管に細心の注意を払うよう頼んでいる。 受刑中もヘスは内向的で他の受刑者となじまず、一人瞑想したりしていた。アメリカ軍の刑務所管理官ユージン・バード大佐(Eugene Bird)は囚人たちにかなり寛大で、宇宙計画に関心を持っていたヘスのためにNASAの研究成果を調達したり、バード大佐の名前でヘスとNASAの科学者の文通を取り持つなどしていた。しかしそれを問題視したソ連の圧力で彼は後に解任された。 1954年にノイラート、1955年にレーダー、1956年にデーニッツ、1957年にフンクが釈放された。そして1966年9月30日にシュペーアとシーラッハが刑期満了で釈放されると、ヘスはただ1人の受刑者となった。さらに、1981年9月1日にシュペーアが死亡すると、ニュルンベルク裁判の被告としては最後の生き残りとなった。しばしば家族や政治家、学者たちから減刑嘆願書が国連常任理事国に提出されたが、ソ連の反対によって常に却下された。拒否権を有するソ連が反対を続ける限り、ヘスが釈放される可能性はなかったが、ネオナチによってヘスは「ナチズムの殉教者」として次第に祭り上げられていった。しかし彼自身はネオナチを「正統なナチズムの歪曲や誤解の産物」として嘲り嫌っていたという。
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シュパンダウ刑務所
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「アルベルト・シュペーア」の記事における「シュパンダウ刑務所」の解説
シュペーア含む禁固刑を受けた7人の戦犯たちはしばらくニュルンベルク刑務所で服役を続けていたが、1947年7月18日にDC-3機でベルリンへ移送され、護送車でイギリス占領地域シュパンダウ区にあるシュパンダウ刑務所に投獄された。シュペーアの囚人番号は5番だった。 刑務所内では手紙以外の執筆は認められておらず、回顧録の執筆も禁じられていたが、シュペーアは刑務所内で一章ずつこっそりと回顧録執筆を行い、オランダ人看護付添人(戦時中ドイツ軍捕虜収容所に入れられていたが、シュペーアのおかげでいい待遇を受けていた人物)を協力者にしてその原稿を刑務所外に持ち出してもらい、出版関係者に届けていた。出版社が彼の自伝を高額で買い取る交渉をしていたのは公然の事実だったという。ヘスと並ぶ読書家であり、刑務所内で約5000冊読んだという。 労作業では一生懸命働いた。また囚人の中で最も率直な人物で寡黙だったという。そのため模範囚と看做されていたシュペーアだったが、時々はっきりとした理由なく看守を罵りだして懲罰を受けることがあった。アメリカ管理官ユージン・バード大佐が何故そんな事をするのか聞いたところ、シュペーアは「たまにはこんな風にストレスを発散させないと私は発狂してしまいますよ。私はわざとこんなことをしているのであり、懲罰を受けることも先刻承知しています。正気でいるためにはこれしかないんですよ」と答えたという。 1966年10月1日午前0時をもってシーラッハとともに20年の刑期満了で釈放された。シーラッハは出獄の際にシュペーアに「ヘル・シュペール。過去のことは過去に、我々はこれからも連絡を取り合おう」と言って手を差しだした。シュペーアは「ああ、そうしよう」と答えて握手に応じたという。 シュペーアを迎えに来た車の中にはシュペーアの妻と弁護士フレックスナーが乗っており、シュペーアは妻と手を握り合った。そして車に乗りこむと門の前に集まるマスコミの中を通過して西ベルリン内のダーレム(ドイツ語版)のホテルへ向かった。
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