シュパンダウ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 01:10 UTC 版)
「プロイセン王立造兵廠」の記事における「シュパンダウ時代」の解説
「Plan」(計画地。後には「Gewehrplan und Pulverfabrik」、すなわち武器計画地と火薬工場)と呼ばれる一帯の敷地はシュパンダウ城塞(ドイツ語版)の東側から一望できる場所にあり、後には拡張されたシュパンダウ要塞(ドイツ語版)の一部となった。シュパンダウでも最初の建物は、労働者の住居も作業場も単純な木組み建築であった。、リエージュ出身の銃工のため、ここに建てられた小さな木組みの教会(ドイツ語版)は宗教改革後、プロイセンで初めて建設されたカトリックの教会堂であった。教区の成長に伴い、これは1847年から1848年にかけて現在も残されているベーニッツの聖マリア教会(英語版)に置き換えられている。シュパンダウでは鉄を加工するため、水力式のハンマー・ミル(英語版)やボーリング・ミルが存在した。1726年、ゴットフリート・ダウムはツェーデニックで鋳造した砲弾を収納する倉庫を建てさせている。 1755年、国王フリードリヒ2世は新しいボーリング・ミルと鉄を収容する倉庫のために出資する。しかし造兵廠の建物の維持には、「経営者の利益にしかならない」として「1グロッシェンたりと」払う気がなかった。結局、1775年から1777年にかけて国王は工廠や住居の広範な保守作業を命じている。 1817年における王立花火研究所のベルリンからシュパンダウ城塞への移設と、1834年における王立火薬廠(ドイツ語版)のベルリン近郊、ユングファーンハイデ(英語版)からシュパンダウへの移築をもって、既存の造兵廠に加えて兵器産業の二つの工廠が同地へ移転してきた。続いて1855年には大砲鋳造所の建物が追加され、1869年から1870年にかけて新しいハンマー・ミルと圧延工場を伴う火砲製造所が新築される。これら二つの軍需工場で、従業員はゾイトカー社の機械を用い、砲架、前車や弾薬輸送車などを製造していた。さらに青銅製の榴弾や大砲も造られた。1868年から1887年にかけて、さらに新しいボーリング・ミルと弾丸の円筒研削工場が加わっている。 小銃試験委員会(ドイツ語版)はその業務を1887年、シュパンダウで開始した。
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