シュパンダウ刑務所に服役
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「カール・デーニッツ」の記事における「シュパンダウ刑務所に服役」の解説
デーニッツ含む禁固刑を受けた7人の戦犯たちはしばらくニュルンベルク刑務所で服役を続けていたが、1947年7月18日にDC-3機でベルリンへ移送され、護送車でシュパンダウ刑務所に送られてそこに投獄された。デーニッツの囚人番号は2番だった。 刑務所内ではノルマの労作業をこなしながら自由時間には読書をしていることが多かった。ショーペンハウアーの著作や鳥類学の神秘の本などをよく読んでいたという。家族からの手紙が一月に一度しか許されないことに不満を述べていた。 1952年冬にはデーニッツとシーラッハとアメリカ人看守1名が刑務所中庭で雪合戦に興じ、三人とも厳しく罰せられる事件があった。 釈放の二ヶ月前に弁護士クランツビューラーとの接見が許された。デーニッツは西ドイツ国民が自分を有罪と考えているかと弁護士に尋ねたが、弁護士は「一握りの連中はそのようなことを考えているが、大多数の者は貴方の有罪は政治的なものだと考えている。多くのマスコミも貴方の記事を書こうとしているが、悪く書こうとしているのではない」と述べてデーニッツを安心させた。 1956年9月30日午前0時、デーニッツは10年の刑期を満了して釈放された。刑務所の門の前で張っている報道陣をかわすためにイギリス軍所有のリムジンがおとりで最初に出て報道陣を引きつけ、その後デーニッツの乗ったタクシーが刑務所を出た。 アルベルト・シュペーアによると、デーニッツはヒトラーの後継者になったことを激しく後悔し、シュパンダウ刑務所の出獄にあたって(自分をヒトラーに推薦したと信じていた)シュペーアに「お前のせいで私は11年を無駄にした。お前がいなければヒトラーは私を国家元首にしようなどという考えを決して起こさなかった。私の部下たちはみな連邦海軍で指揮権を復活した。だが私を見ろ。まるで犯罪者だ。私の軍歴が滅茶苦茶だ。」と捨て台詞を残したという。デーニッツの非難に対し、シュペーアは「あの戦争で数百万人の人間が殺された。さらに数百万人が強制収容所で殺された。ここにいる我らは皆政府の一部であった。しかし君がここで悩んでいるのは5000万人の死者のことではなく、君の10年間だ。君の刑務所での最期の言葉はこんなものなのか。『私の軍歴!』」と反論したという。
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