シュパイヒャーシュタット【Speicherstadt】
シュパイヒャーシュタット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/07 15:33 UTC 版)
「ハンブルクの倉庫街とチリハウスを含む商館街」の記事における「シュパイヒャーシュタット」の解説
シュパイヒャーシュタット(英語版) (Speicherstadt) はエルベ川の中洲に、19世紀以降発達した倉庫の建ち並ぶ地区である。自由港に形成された倉庫群で、19世紀末の時点では倉庫街として世界最大規模だった。その延べ床面積30万平方メートルは、まとまった倉庫群の規模としては、現代においても世界最大級である。 シュパイヒャーシュタットはドイツ関税同盟に組み込まれる前の移行期間中に建てられ始めた。1881年に持ち上がった計画が1883年にビスマルクの許可を得た後、1885年設立のハンブルク自由港倉庫建築組合 (ドイツ語版)によって実現した。その実現に大きな影響力を持ったのが、1872年にハンブルク建設局の主任技師に就任したフランツ・アンドレアス・マイヤー(ドイツ語版)である。マイヤーはハンブルク出身だが、ハノーファーで建築を学んだため、歴史主義建築の中でも当時「ハノーファー派」と呼ばれたレンガ造りのネオ・ゴシック様式の影響を強く受けた。その結果できあがったネオ・ゴシック様式の倉庫群の重厚な外観などは、城に例えられることもある。その倉庫群は、レンガ造りの7階建てで、上部には軒蛇腹、階段状の張り出し切妻といった装飾要素がいくらか存在する。 倉庫はいくつもの区画(ブロック)に分けられており、その建築は1885年から1927年まで、以下の3段階に分けられる。 第1期(1885年 - 1888年) - ブロックAからOまで(FとIは欠番)。 第2期(1891年 - 1896年) - ブロックPおよびブロックQ/R。普通、ブロックは運河などで隔てられるが、QとRは連続している。 第3期(1899年 - 1927年) - ブロックSからXまで。ただし、ほとんどは1912年までには完成しており、専門家には全計画の終了時期を1912年としている文献もある。第3期にハンブルクの建築で中心的地位を占めたのはフリッツ・シューマッハー(後述)で、彼はコントーアハウス地区の商館建築ではハノーファー派に批判的な立場をとるのだが、倉庫群については第2期までのハノーファー派の様式を踏襲した。 なお、ブロックA, B, C, J, K, MおよびOの東部は第二次世界大戦時に全壊しており、そのうち、いくつかの再建されなかった(または全く別の建物が建てられた)ブロックは世界遺産の対象からは除外されている。 倉庫群は関税運河 (Zollkanal) などに面しており、船から直接荷揚げできるようになっている。荷揚げする際には屋根から下がる滑車を利用したが、その中には世界遺産登録時点でも稼動しているものもある。19世紀の主な取扱商品はタバコ、生糸、香料などで、特にカカオ豆、コーヒー、絨毯の取扱量は世界最大だったとされる。 自由港地区が形成された当初は居住に使うことは認められていなかったが、このルールは1997年に改正された。一帯は、大規模なウォーターフロント再開発の一端として、いわゆる「ハーフェンシティ」に含まれているが、シュパイヒャーシュタットは可能な限り、修復・保存する方針が採用された。ただ、シェンゲン協定の広まりにともなって自由港としての意義が薄れた結果、使用されなくなった倉庫の中には、IT企業などが入って再利用している事例もある。 世界遺産には、当時の姿をとどめる15のブロックと、関連する6つの旧施設、すなわち旧ボイラー棟 (Boiler House)、旧中央動力棟 (Central Power House)、旧コーヒー取引所 (Coffee Exchange)、旧有人火災報知棟 (Manned Fire Alarm Station)、旧巻き揚げ機操縦士棟 (Winch Operator’s House)、旧税関 (Customs Buildings) が含まれる。 ブロックE ブロックP ブロックR ブロックS ブロックU ブロックW ブロックX
※この「シュパイヒャーシュタット」の解説は、「ハンブルクの倉庫街とチリハウスを含む商館街」の解説の一部です。
「シュパイヒャーシュタット」を含む「ハンブルクの倉庫街とチリハウスを含む商館街」の記事については、「ハンブルクの倉庫街とチリハウスを含む商館街」の概要を参照ください。
- シュパイヒャーシュタットのページへのリンク