帝国首都建設総監
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「アルベルト・シュペーア」の記事における「帝国首都建設総監」の解説
「世界首都ゲルマニア」も参照 1937年1月30日、シュペーアは帝国首都建設総監(ドイツ語版)(ドイツ語: Generalbauinspektor für die Reichshauptstadt、GBI)に任ぜられ、大ドイツの首都にふさわしくベルリンを改造するメガロマニアックな首都改造計画「ゲルマニア計画」の統括責任者となった。 ベルリン市街は、ブランデンブルク門や国会議事堂の西寄りに建設される、長さ 5 km の巨大な南北軸(Nord-Süd-Achse)の大通りに沿って再編成され、巨大な新古典様式の政府機関ビルや大企業本社ビルが通りの両側に並べられ、北端には「国民ホール(en:Volkshalle)」と呼ばれる大会堂が建つことになっていた。これはローマのサン・ピエトロ大聖堂の大ドームに基づく巨大ドーム建築であったが、高さ 200m 以上、直径 300m と、サン・ピエトロ大聖堂の17倍大きなドームが予定されていた。 南北軸の南端には凱旋門が計画されたが、これもパリのエトワール凱旋門を基にしながらもさらに巨大なもので、高さは 120m となるはずだった。南北軸の大通りには、南側と北側に巨大な鉄道駅、「南駅」、「北駅」を設ける計画だった。また大通りはたくさんの車線を設けるために幅広く確保して、凱旋門より南へも 40 km に渡り伸びる予定だった。これらの大建築の設計の一部には、ヒトラーが若いころに構想してデッサンに残した建築デザインが使用された。シュペーアの記述(シュパンダウ刑務所で書かれた回顧録)によれば、計画がすべて完成すれば8万軒の建物が立ち退きのために壊されると見られていた。南北軸は実現しなかったものの、ブランデンブルク門を基点とする東西軸(Ost-West-Achse)は着工しており、ティーアガルテンに街灯などが残存している。現在ティーアガルテンに建っている戦勝記念塔も、この計画のために国会議事堂前から移設されたものである。 シュペーアはヴェルサイユ宮殿の鏡の間より2倍長い大ホールのある総統官邸新館(ドイツ語版)を設計した。シュペーアは多くの労働者に過酷な労働を強いて1年足らずで完成させ、その手腕にヒトラーは「わが天才」と称えた。ヒトラーはさらに大きい総統官邸を設計するよう要請したが、これはついに実現しなかった。1939年4月のヒトラー50歳の誕生日前夜に東西幹線道路が開通し、シュペーアはヒトラーへの誕生日プレゼントとして、15年前にヒトラーがスケッチした凱旋門の模型を官邸に用意してヒトラーを喜ばせた。 しかしこの建築計画は当時労働者不足にあえいでいたドイツ経済にとっては負担の大きいものだった。そこでヒトラー、シュペーア、ハインリヒ・ヒムラーらは共同で、強制収容所の囚人たちを労働者として用いる計画を立てた。まずシュペーアがGBIとしての権限で親衛隊の建設資材工場への融資を行い、工場は建設資材で弁済を行うというものであった。また、1938年9月にはベルリン市に2500人のユダヤ人を転居させるよう提案し、彼らはベルリン市郊外の収容所に移転させられた。また、第二次世界大戦中にもユダヤ人たちが住んでいた住居の管轄権を主張している。 1939年の第二次世界大戦開戦により、多くのゲルマニア建設計画は計画のみにとどめ置かれ、一旦着工が見送られることとなった。フランス屈服後の1940年6月25日には、壮大なゲルマニア計画に強い思い入れがあったヒトラーは、建設の再開と前倒しを命令した。しかし1941年12月にはシュペーアは計画の中止を申し出、管轄下にあった労働力を東部での鉄道建設や軍需工業に提供した。その後もヒトラーはベルリン陥落の迫る最期の時まで気にかけていた。総統官邸新館は1945年のベルリン市街戦で大きく損傷し、残った部分も占領軍であるソ連軍によって破壊された。 「新ベルリン市」の模型 「国民ホール」の模型 ベルリン・オリンピアシュタディオン 総統官邸新館
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