帝国騎士領都市
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「ネッカービショフスハイム」の記事における「帝国騎士領都市」の解説
中世盛期にはヘルムシュタット家が領主を務めた。その紋章(牛の角をあしらった兜がついた盾型に、カラス)は、多くの建築物に遺されている。まず、ネッカービショフスハイムの城がルドルフ・フォン・ハプスブルクからディーター・フォン・ヘルムシュタットに帝国レーエンとして与えられた。次いで、ラーベン1世フォン・ヘルムシュタット(1334年没)が、ヴォルムスのレーエンとしてこの村を与えられ、ネッカービショフスハイムの創設者となった。ヘルムシュタット家はヴォルムス司教との間で、1330年頃にトーテン教会の庇護権と、グロムバッハの所領ならびにオーバービーゲルホーフ(農場)とを交換した。1378年6月24日にヴィプレヒト1世フォン・ヘルムシュタットは、兄のラーベン3世から5000グルデンで「ビショフスハイム城および市に沿った渓谷」を入手している。この文書がビショフスハイムを「市」と記載している最も古い記録である。クレプスバッハ川は、この都市の防衛施設を迂回して、濠となって、トーテン教会(13世紀)、市役所、十分の一税倉庫、パン焼き小屋(1380年の記録が遺る)、マリア礼拝堂(1386年)、アレクサンダー城(1420年以後)を含む市街を取り囲んでいた。15世紀後期の市域の拡大により、いわゆるヒンターシュタット(背後の都市)が成立した。15世紀初期に、12人の市民と12人の判事からなる市議会が設けられ、領主に対抗するビショフスハイムの利益代表となった。 1524年にフィリップ・ヤーコプ、アレクサンダー、フィリップの領主が住民の権利を容認していたにもかかわらず、1525年のドイツ農民戦争では、ビショフスハイムおよびその周辺が紛争の中心地の一つとなった。キルヒガウの暴動鎮圧後、これを承けて1525年6月28日にビショフスハイムでは前年の協定が破棄され、100年以上の伝統を誇った24人の市議会は廃止された。1526年、おそらくはアレクサンダー・フォン・ヘルムシュタットとフィリップ・フォン・ヘルムシュタットによってプロテスタントの説教師ニコラウス・レンネイゼンが招かれ、宗教改革がもたらされた。また、同じ頃、この都市にラテン語学校が創設された。 16世紀のこの都市の主要産業は農業であったが、この他に左官、石工、鍛冶屋、指物師、仕立屋など都市生活に必要なあらゆる手工業者が存在した。この町には3つの水車小屋があり、後に製材所も設けられた。1561年にレンガを焼成するためのレンガ小屋が初めて記録された。1574年と1575年にはペストがこの都市を襲った。 三十年戦争中の1622年3月6日から4月4日までの間、ティリー伯はこの街のシュタイネルネン・ハウスに司令部を構え、ハイデルベルク包囲作戦の準備を始めた。1622年4月3日にプファルツ軍が東からビショフスハイムに迫り、ティリー伯軍は逃亡した。1634年に帝国騎士軍が襲い、1638年にはクロアチア軍が、1645年にはフランス軍がこの都市を包囲し、飢餓とペストが苛んだ。この戦争の期間中、周囲の防衛施設を持たない村、特にウンターギムペルンから避難民がこの都市にやってきて、アレクサンダーシュロスに居着いた。17世紀の最後の10年間には、フランスの侵攻に伴い、多くの難民と死者が出た。1689年にジンスハイムが破壊されると、多くのジンスハイム住民も難民となって流れ込んできた。 1712年頃に、ビショフスハイムとウンターギムペルクとの間のクレプスバッハ渓谷にヘルムホーフ入植地が拓かれた。その一部はビショフスハイムの領域内、一部はヴィンプフェンの森に含まれていた。18世紀にはいるとビショフスハイムは、中世の防衛施設を越えて拡大していった。市の濠は沼地と化し、やがて乾いていった。1826年には、それまで遺っていた中世の市壁と市門が破壊された。
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