カスティーリャ、アラゴン、およびマリーン朝の三国間同盟に対する戦争
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「ナスル (ナスル朝)」の記事における「カスティーリャ、アラゴン、およびマリーン朝の三国間同盟に対する戦争」の解説
ナスルが権力を握った頃、ナスル朝は同盟国を持たず、三つの大きな敵が自国に対して開戦の準備をしているという非常に危険な状況にあった。主な争奪の対象の一つは、1304年にマリーン朝に対して反乱を起こし、ムハンマド3世の治世中にナスル朝によって占領されていたジブラルタル海峡の北アフリカ側の港湾都市であるセウタであった。当時ナスル朝はアルヘシラスやジブラルタルなどのジブラルタル海峡の港湾都市に加えて東方のマラガとアルメリアを支配しており、さらにはセウタを占領したことで海峡の両岸に対する強力な支配を手にすることになった。しかしながら、この状況はマリーン朝だけではなく、カスティーリャとアラゴンをも敵に回す結果を招いた。 マリーン朝は1309年5月12日にセウタへの攻撃を開始し、7月初旬にはアラゴンと正式な同盟を結んだ。アラゴンに小麦と大麦を供給し、モロッコのカタルーニャ商人に商業上の便宜を与え、双方がナスル朝と単独で講和を結ばない旨を約束することと引き換えに、アラゴンがガレー船と騎士を派遣してマリーン朝のセウタ攻略を支援することになった。この協定ではセウタを占領した後にマリーン朝へ都市を引き渡すことになっていたが、引き渡す前に都市を略奪してすべての持ち運ぶことが可能な資産をアラゴンに譲渡することも定めていた。しかし、ナスル朝の統治に不満を抱いていたセウタの民衆が1309年7月21日にアラゴンの助けを借りることなくナスル朝の総督を倒し、マリーン朝に都市を明け渡した。セウタを取り戻したことでマリーン朝はナスル朝に対する態度を軟化させ、双方のイスラーム国家は交渉に入った。ナスルはすでに4月以来フェズのマリーン朝の宮廷に何度か使者を派遣しており、1309年9月下旬には和平が合意に達した。ナスルはこの合意でマリーン朝によるセウタの支配を受け入れ、さらにはヨーロッパ側のアルへシラスとロンダの両都市とその周辺の領土の割譲を認めた。この結果、マリーン朝は1294年を最後に撤退していたイベリア半島南部におけるナスル朝の伝統的な領土内に再び拠点を持つことになった。もはやアラゴンからの援助を必要としなくなったマリーン朝は両者の間の同盟を破棄し、約束していたセウタからの戦利品を送らなかった。すぐにアラゴン王ジャウマ2世(在位:1291年 - 1327年)はカスティーリャ王フェルナンド4世(在位:1295年 - 1312年)に手紙を記し、マリーン朝のスルターンのアブー・アッ=ラビー・スライマーン(英語版)(在位:1308年 - 1310年)に関して、「王よ、今後我々はあの王を敵と見なすことができるように思える」と書き送った。 セウタをめぐる争いが進んでいた一方で、カスティーリャとアラゴンの軍隊だけでなく7月3日に同盟に加わったポルトガルの軍隊をも含んだキリスト教徒の連合軍が、フェルナンド4世の指揮の下で1309年7月末にナスル朝の西端の港湾都市であるアルヘシラスを包囲(英語版)した。その後、程なくして連合軍の分隊が近隣のジブラルタルも包囲(英語版)した。2台の包囲攻撃用の兵器がジブラルタルの城壁に攻撃を加え、アラゴンの船が港を封鎖した。そしてナスル朝とマリーン朝が和平を結ぶ直前の1309年9月12日にジブラルタルは降伏した。街のモスクは教会に改造され、住民のうち1,125人がキリスト教徒の支配下に置かれることを望まず北アフリカへ去った。ジブラルタルの港はアルヘシラスほどの重要性はなかったものの、カスティーリャがジブラルタル海峡への戦略的な足掛かりを得たという点ではこの港の征服は重要な意味を持っていた。ジブラルタルは1333年にイスラーム教徒の手に戻り、1464年には再びカスティーリャの手に渡ったように、長らく海峡のいくつかの港湾都市をめぐる争い(英語版)が続いた。 アルヘシラスに対する包囲はジブラルタルの降伏後も続いていたが、ナスル朝とマリーン朝の間で和平が成立したことでアルヘシラスはマリーン朝の手に渡り、守備隊はマリーン朝のために戦うことになった。マリーン朝がアルヘシラスの防御を強化するために軍隊と物資を送る一方で、ナスルは東方の戦線へ注意を向けた。そして10月下旬か11月のいずれかに、フェルナンド4世の叔父であるインファンテのフアン・デ・カスティーリャ(英語版)と従兄弟のドン・フアン・マヌエルに率いられた500人のカスティーリャの騎士の一団がアルヘシラスの包囲から離脱した。この出来事は残った包囲軍の士気を低下させ、反撃を受けやすい状況を作った。それでもなおフェルナンド4世は包囲の継続を決意し、アルヘシラスから撤退する不名誉よりも戦いで死ぬことを選ぶと誓った。 東部方面の戦線ではアラゴン軍がカスティーリャの支援を得てアルメリアを包囲(英語版)していた。しかしながらジャウマ2世の率いるアラゴン軍は到着が遅かったために、1309年8月中旬に海路で到達した時にはすでにアルメリアは物資の備蓄と防御体制の改善に成功していた。アラゴン軍のアルメリアに対する一連の攻撃は失敗に終わり、一方ではナスルが都市を救援するためにウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラー(英語版)の率いる部隊を派遣した。派遣された部隊はアルメリアの近郊のマルチェナ(英語版)でアラゴン軍の一部隊を破るとマルチェナに陣を張り、包囲側の徴発部隊に繰り返し攻撃を加えた。アルメリアは冬に近づいても依然として包囲に持ちこたえ、さらには11月に入るとアルヘシラスへの包囲が緩んだことから、ナスル朝は東方へより多くの援軍を送ることが可能になった。結局、12月末にジャウマ2世とナスルは停戦に合意し、アラゴン軍はナスル朝の領内から撤退することになった。撤退時には何度か衝突が発生したものの、1310年1月に撤退は完了した。ナスルはアラゴン軍の撤退中にジャウマ2世へ宛てた手紙の中で、ナスル朝の領内で略奪を働いていたアラゴン軍の部隊がいたために、都市の守備隊がこれらの部隊を拘束下に置き続けなければならなかったと記し、さらにアラゴンの船が迎えに来るのを待つ間、「一部に飢えに苦しんでいる者がいたため」イスラーム教徒たちが自費で住居や食料を提供したことを伝えた。 フェルナンド4世によるアルヘシラスへの包囲はほとんど状況に進展がなく、1310年1月までに包囲を解除してナスルとの交渉に入った。しかしながら、他の場所では戦争行為が依然として続いていた。例としてフェルナンド4世の弟であるインファンテのペドロ・デ・カスティーリャ(英語版)の率いるカスティーリャ軍がへレス近郊のテンプルの町を占領し、カスティーリャとアラゴンの艦隊が5月になってもなおナスル朝の海域を哨戒していた。そして同年の5月26日に7年間の平和条約が締結された。この条約の中でナスルは150,000ドブラ(英語版)の賠償金と毎年11,000ドブラの貢納金をカスティーリャへ支払うことに同意した。さらにナスル朝は攻略されたジブラルタルに加え、以前の戦争でナスル朝が獲得していたケサーダ(英語版)やベドマル(英語版)を含む国境の町を割譲した。また、双方の君主はお互いの敵に対して相互に支援することで合意した。ナスルはカスティーリャの臣下となり、要求された場合には年に最大3ヶ月まで自前の兵力と費用による軍事力の提供を義務付けられた。両国の間には複数の市場が開設され、フェルナンド4世は国境地域のキリスト教徒とイスラーム教徒の間の紛争を裁くための特例的な辺境裁判官(juez de la frontera)を任命することになった。一方、ナスル朝とアラゴンの間の条約に関する歴史上の記録は発見されていないものの、ナスルがジャウマ2世に65,000ドブラの賠償金を支払うことに同意し、そのうち30,000ドブラがフェルナンド4世の負担となっていたことが知られている。 イベリア半島におけるマリーン朝の支配は短命に終わった。1310年11月にアブー・アッ=ラビー・スライマーンが死去し、アブー・サイード・ウスマーン2世(在位:1310年 - 1331年)がスルターンの地位を継いだ。ウスマーン2世はイベリア半島の領土をさらに拡大することを望んでいたものの、1311年7月25日にアルヘシラス沖でジブラルタル海峡に派遣した艦隊がカスティーリャの艦隊に敗れた。その後ウスマーン2世はアルヘシラスとロンダを含むイベリア半島の領土をナスル朝に返還して撤退することを決めた。
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