カスティーリャ、アラゴン、およびマリーン朝の三国間同盟に対する戦争とは? わかりやすく解説

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カスティーリャ、アラゴン、およびマリーン朝の三国間同盟に対する戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 10:08 UTC 版)

ナスル (ナスル朝)」の記事における「カスティーリャ、アラゴン、およびマリーン朝の三国間同盟に対する戦争」の解説

ナスル権力握った頃、ナスル朝同盟国持たず三つ大きな敵が自国に対して開戦準備をしているという非常に危険な状況にあった主な争奪対象一つは、1304年マリーン朝に対して反乱起こしムハンマド3世治世中にナスル朝によって占領されていたジブラルタル海峡北アフリカ側の港湾都市であるセウタであった当時ナスル朝アルヘシラスジブラルタルなどのジブラルタル海峡港湾都市加えて東方マラガアルメリア支配しており、さらにはセウタ占領したことで海峡両岸対す強力な支配手にすることになったしかしながら、この状況マリーン朝だけではなくカスティーリャアラゴンをも敵に回す結果招いたマリーン朝1309年5月12日セウタへの攻撃開始し7月初旬にはアラゴン正式な同盟結んだアラゴン小麦大麦供給しモロッコカタルーニャ商人商業上の便宜与え双方ナスル朝単独講和結ばない旨を約束することと引き換えに、アラゴンガレー船騎士派遣してマリーン朝セウタ攻略支援することになった。この協定ではセウタ占領した後にマリーン朝都市引き渡すことになっていたが、引き渡す前に都市略奪してすべての持ち運ぶことが可能な資産アラゴン譲渡することも定めていた。しかし、ナスル朝統治に不満を抱いていたセウタ民衆1309年7月21日アラゴン助け借りことなくナスル朝総督倒しマリーン朝都市明け渡したセウタ取り戻したことでマリーン朝ナスル朝対す態度軟化させ、双方イスラーム国家交渉入ったナスルはすでに4月以来フェズマリーン朝宮廷何度使者派遣しており、1309年9月下旬には和平合意達したナスルはこの合意マリーン朝によるセウタ支配受け入れさらにはヨーロッパ側のアルシラスロンダの両都市その周辺領土割譲認めた。この結果マリーン朝1294年最後に撤退していたイベリア半島南部におけるナスル朝伝統的な領土内に再び拠点を持つことになった。もはやアラゴンからの援助を必要としなくなったマリーン朝両者の間の同盟破棄し約束していたセウタからの戦利品を送らなかった。すぐにアラゴン王ジャウマ2世在位1291年 - 1327年)はカスティーリャ王フェルナンド4世在位1295年 - 1312年)に手紙記しマリーン朝スルターンのアブー・アッ=ラビー・スライマーン(英語版)(在位1308年 - 1310年に関して、「王よ、今後我々はあの王を敵と見なすことができるように思えると書き送ったセウタをめぐる争い進んでいた一方でカスティーリャアラゴン軍隊だけでなく7月3日同盟加わったポルトガル軍隊をも含んだキリスト教徒連合軍が、フェルナンド4世指揮の下で1309年7月末にナスル朝西端港湾都市であるアルヘシラス包囲英語版)した。その後程なくして連合軍分隊近隣ジブラルタル包囲英語版)した。2台の包囲攻撃用の兵器ジブラルタル城壁攻撃加えアラゴンの船が港を封鎖した。そしてナスル朝マリーン朝和平を結ぶ直前1309年9月12日ジブラルタル降伏した。街のモスク教会改造され住民のうち1,125人がキリスト教徒支配下置かれることを望まず北アフリカ去ったジブラルタルの港はアルヘシラスほどの重要性はなかったものの、カスティーリャジブラルタル海峡への戦略的な足掛かり得たという点ではこの港の征服重要な意味を持っていた。ジブラルタル1333年イスラーム教徒の手戻り1464年には再びカスティーリャの手渡ったように、長らく海峡いくつかの港湾都市をめぐる争い英語版)が続いたアルヘシラス対す包囲ジブラルタル降伏後続いていたが、ナスル朝マリーン朝の間で和平成立したことでアルヘシラスマリーン朝の手渡り守備隊マリーン朝のために戦うことになったマリーン朝アルヘシラス防御強化するために軍隊物資を送る一方でナスル東方戦線注意向けた。そして10月下旬11月いずれかにフェルナンド4世叔父であるインファンテのフアン・デ・カスティーリャ(英語版)と従兄弟ドン・フアン・マヌエル率いられ500人のカスティーリャ騎士一団アルヘシラスの包囲から離脱した。この出来事残った包囲軍の士気低下させ、反撃を受けやすい状況作ったそれでもなおフェルナンド4世包囲継続決意しアルヘシラスから撤退する不名誉よりも戦いで死ぬことを選ぶと誓った東部方面戦線ではアラゴン軍がカスティーリャ支援得てアルメリア包囲英語版)していた。しかしながらジャウマ2世率いアラゴン軍は到着遅かったために、1309年8月中旬海路到達した時にはすでにアルメリア物資備蓄防御体制改善成功していた。アラゴン軍のアルメリア対す一連の攻撃失敗終わり一方でナスル都市救援するためにウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラー英語版)の率い部隊派遣した派遣され部隊アルメリア近郊のマルチェナ(英語版)でアラゴン軍の一部隊を破るとマルチェナに陣を張り包囲側の徴発部隊繰り返し攻撃加えたアルメリアは冬に近づいても依然として包囲持ちこたえ、さらには11月に入るとアルヘシラスへの包囲緩んだことから、ナスル朝東方へより多く援軍を送ることが可能になった。結局12月末にジャウマ2世ナスル停戦合意しアラゴン軍はナスル朝領内から撤退することになった撤退時には何度衝突発生したものの、1310年1月撤退完了したナスルアラゴン軍の撤退中にジャウマ2世宛てた手紙の中で、ナスル朝領内略奪働いていたアラゴン軍の部隊がいたために、都市守備隊がこれらの部隊拘束下に置き続けなければならなかったと記し、さらにアラゴンの船が迎えに来るのを待つ間、「一部飢え苦しんでいる者がいたため」イスラーム教徒たちが自費住居食料提供したことを伝えたフェルナンド4世によるアルヘシラスへの包囲はほとんど状況進展がなく、1310年1月までに包囲解除してナスルとの交渉入ったしかしながら他の場所では戦争行為依然として続いていた。例としてフェルナンド4世の弟であるインファンテのペドロ・デ・カスティーリャ(英語版)の率いカスティーリャ軍がへレス近郊テンプルの町を占領しカスティーリャアラゴン艦隊5月になってもなおナスル朝海域哨戒していた。そして同年5月26日7年間の平和条約締結された。この条約の中でナスル150,000ドブラ英語版)の賠償金毎年11,000ドブラ貢納金をカスティーリャ支払うことに同意した。さらにナスル朝攻略されたジブラルタル加え以前戦争ナスル朝獲得していたケサーダ(英語版)やベドマル(英語版)を含む国境の町割譲したまた、双方君主お互いの敵に対して相互に支援することで合意したナスルカスティーリャ臣下となり、要求され場合には年に最大3ヶ月まで自前兵力費用による軍事力の提供を義務付けられた。両国の間には複数市場開設されフェルナンド4世国境地域キリスト教徒イスラーム教徒の間の紛争を裁くための特例的な辺境裁判官(juez de la frontera)を任命することになった一方ナスル朝アラゴンの間の条約に関する歴史上の記録発見されていないものの、ナスルジャウマ2世65,000ドブラ賠償金支払うことに同意しそのうち30,000ドブラフェルナンド4世負担となっていたことが知られている。 イベリア半島におけるマリーン朝支配短命に終わった1310年11月にアブー・アッ=ラビー・スライマーンが死去し、アブー・サイード・ウスマーン2世在位1310年 - 1331年)がスルターン地位継いだウスマーン2世イベリア半島領土をさらに拡大することを望んでいたものの、1311年7月25日アルヘシラス沖でジブラルタル海峡派遣した艦隊カスティーリャ艦隊敗れたその後ウスマーン2世アルヘシラスロンダを含むイベリア半島領土ナスル朝返還し撤退することを決めた

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