カスティーリャで英仏代理戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:22 UTC 版)
「エドワード3世 (イングランド王)」の記事における「カスティーリャで英仏代理戦争」の解説
1366年1月にフランス王シャルル5世はカスティーリャの国王ペドロ1世と対立する庶兄エンリケを擁立し、ベルトラン・デュ・ゲクラン率いる傭兵団にカスティーリャ遠征を開始させ、わずか3カ月で首都ブルゴスを攻略してエンリケをエンリケ2世として即位させた。王位を追われたペドロ1世はイングランドの庇護を受けようとアキテーヌに亡命してきた。当時アキテーヌはフランス王の宗主権がなくなっていたのでエドワード3世が宗主で黒太子がアキテーヌ卿となっており、ボルドーに黒太子の宮廷が置かれていた。黒太子は9月23日にペドロ1世との間にリブルヌ条約(フランス語版)を締結して同盟を結び、以降カスティーリャ内乱は英仏代理戦争と化すことになった。 1367年4月3日、黒太子の支援を受けるペドロ1世軍はナヘラの戦いでフランスの支援を受けるエンリケ2世軍を撃破し、黒太子はペドロ1世をカスティーリャ王に復位させた。しかし黒太子はカスティーリャに滞在していた際に病を患ったうえ、出兵にかかった費用の回収のためにアキテーヌで増税を行ったことが反発を招いた。特にアルマニャック伯(フランス語版)ジャン1世やアルブレ卿アルノー・アマニュー(フランス語版)といった南部ガスコーニュ貴族が強く反発し、彼らはフランス王シャルル5世に訴え出た。カレー条約でアキテーヌへの宗主権を放棄したはずのシャルル5世はこれを口実に1369年11月30日にアキテーヌ没収を宣言。エドワード3世はこれをフランスによるカレー条約の破棄宣言と見なし、再びフランス王を名乗り、アキテーヌを舞台に百年戦争が再開された。
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