カスティーリャとマリーン朝に対する両面戦争
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「ムハンマド2世 (ナスル朝)」の記事における「カスティーリャとマリーン朝に対する両面戦争」の解説
しかしながら、マリーン朝のマラガの喪失とカスティーリャによるアルヘシラスの攻略の妨害につながったこれらのナスル朝の策略は、結果として双方の勢力から怒りを買うことになり、両者は1280年にアシュキールーラ家と共にナスル朝を攻撃した。マリーン朝とアシュキールーラ家はマラガに向けて進軍したが、南部のマルベーリャ一帯の攻略は失敗に終わった。一方のカスティーリャは北から攻撃を加え、アルフォンソ10世の息子であるインファンテ(王子)のサンチョ(後のサンチョ4世)が軍隊を率いたものの、イブン・ムハッリーとターシュフィーン・ブン・ムウティーに率いられた北アフリカ出身者から成るアル=グザート・アル=ムジャーヒディーン(英語版)によって侵攻を阻止された。アル=グザート・アル=ムジャーヒディーンは主に一族や部族の単位で北アフリカから移住してきた政治亡命者によって構成されたナスル朝の軍事組織であった。この軍隊はナスル朝が兵士の出身地であるマリーン朝とも戦争行為に及んでいたにもかかわらず、ナスル朝をカスティーリャから防衛するために戦った。6月23日にナスル朝の部隊はモクリン(英語版)で大規模なカスティーリャ軍を迎撃した。翌1281年6月にはサンチョに加えてインファンテのペドロとともにアルフォンソ10世が自ら軍隊を率いて再びナスル朝へ侵攻した。カスティーリャ軍は6月25日にグラナダの城壁から近い場所でムハンマド2世の軍隊を破ったが、その後のいくつかの交渉が失敗に終わったことでカスティーリャ軍はグラナダから撤退した。 1281年の終わりにアルフォンソ10世はさらなる交渉のためにサンチョをグラナダへ派遣し、ムハンマド2世はカスティーリャへの臣従を再開することに同意した。しかし、アルフォンソ10世はサンチョが信用を裏切る行為を犯し、ムハンマド2世の貢納を横領したとして非難した。その結果、王と息子の間に亀裂が生じ、ナスル朝に対するカスティーリャの脅威は弱まった。結局アルフォンソ10世はサンチョに対抗するためにアブー・ユースフに支援を求め、両者はカスティーリャのサンチョの支持者に対して共同で行動を起こした。その一方でムハンマド2世は1282年の後半にプリエゴでサンチョと同盟を結んだ。しかし、1283年の終わりにアブー・ユースフがマラガを攻撃したことでムハンマド2世は和平を求めざるを得なくなった。アブー・ユースフの息子のアブー・ヤアクーブ・ユースフが和平を仲介し、両者は和睦するとともに共同でキリスト教勢力を攻撃することに合意した。 アルフォンソ10世は1284年に死去し、王位はサンチョ(サンチョ4世、在位:1284年 - 1295年)に引き継がれた。ナスル朝に対して友好的であったサンチョ4世はカスティーリャの軍隊を撤退させた。そしてムハンマド2世はサンチョ4世への臣従を宣言した。マリーン朝では1286年にアブー・ユースフが死去し、息子のアブー・ヤアクーブ・ユースフ(在位:1286年 - 1307年)が君主の地位を継承した。アブー・ヤアクーブは治世の初期に内政の問題へより関心を集中させたために、イベリア半島における軍事作戦を取り止めて軍隊を撤収させた。1288年にはアブー・ヤアクーブが北アフリカにアシュキールーラ家のための土地を用意し、アシュキールーラ家はこの提供を受け入れてナスル朝の領内から一斉に移住した。
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