カスティーリャに対するナスル朝とマリーン朝の戦争
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「ユースフ1世 (ナスル朝)」の記事における「カスティーリャに対するナスル朝とマリーン朝の戦争」の解説
条約が失効した後の1339年の春にマリーン朝がカスティーリャの田園地方を襲撃したことで戦争行為が再開され、その結果としてカスティーリャと二つのイスラーム教国の間で対立が始まった。ナスル朝はアルカンタラ騎士団の総長であるゴンサロ・マルティネスが率いるカスティーリャ軍による侵攻を受け、ロクビン(英語版)、アルカラ・デ・ベンサイデ、およびプリエゴ(英語版)が襲撃された。これに対してユースフ1世は8,000人の軍勢を率いてシレス(英語版)を包囲したが、サンティアゴ騎士団総長のアルフォンソ・メンデス・デ・グスマンが率いる軍勢によって包囲の解除を余儀なくされた。その後、キリスト教徒側ではマルティネスとデ・グスマンの間で個人的な対立が起こり、マルティネスはユースフ1世の下へ逃亡を試みたと考えられているものの、すぐにカスティーリャ軍に捕らえられ、裏切り者として絞首刑に処された上に遺体は焼却された。その一方でマリーン朝はスルターンのアブル=ハサン・アリーの息子でイベリア半島の軍司令官であるアブー・マーリク・アブドゥルワーヒド(英語版)がカスティーリャの辺境地帯を荒らし回ったが、マリーン朝の軍隊はヘレスでカスティーリャ軍に打ち破られ、アブドゥルワーヒドは1339年10月20日にカスティーリャ軍との戦いの中で死亡した。同じ頃にナスル朝の軍隊はカルカブエイ(英語版)を征服するなど軍事的な成功を収めていた。 1339年の秋にホフレ・ヒジャベルトの率いるアラゴン艦隊がアルヘシラス付近で上陸を試みたものの、艦隊は撃退され、ヒジャベルトは戦死した。1340年4月8日にはアルヘシラス沖でアルフォンソ・ホフレ・テノーリオ(英語版)が率いるカスティーリャ艦隊と、カスティーリャ側より大規模であったムハンマド・アル=アザフィーが率いるマリーン朝とナスル朝の艦隊の間で大規模な戦闘が発生し、イスラーム教徒側が勝利するとともにテノーリオが戦死するという結果に終わった。イスラーム教徒の艦隊は44隻のカスティーリャ艦隊のうち28隻のガレー船と7隻のキャラック船を捕獲した。 アブル=ハサン・アリーはこの海戦の勝利をカスティーリャ征服の前兆とみなした。そして妻たちを含むすべての廷臣と包囲攻撃用の兵器とともに軍隊を率いてジブラルタル海峡を渡った。8月4日にアルヘシラスに上陸したアブル=ハサン・アリーはユースフ1世と合流し、9月23日に海峡沿いのカスティーリャの港湾都市であるタリファを包囲した。アルフォンソ11世は同盟者のポルトガル王アフォンソ4世(在位:1325年 - 1357年)が率いるポルトガル軍と合流し、タリファの救援に向かった。アルフォンソ11世とアフォンソ4世は10月29日にタリファから8キロメートルの地点に到着し、ユースフ1世とアブル=ハサン・アリーは両者を迎え撃つために移動した。アルフォンソ11世は8,000人の騎兵、12,000人の歩兵、そして規模が不明な都市の民兵組織を指揮し、アフォンソ4世は1,000人の軍勢を率いていた。一方のイスラーム教徒側の軍勢の規模ははっきりとしていない。同時代のキリスト教徒による史料は騎兵53,000人、歩兵600,000人と誇張された数字を残しているが、現代の歴史家であるアンブロシオ・ウイシ・ミランダは、ナスル朝軍が7,000人、マリーン朝軍が60,000人であったと1956年に推定している。しかし、戦いの結果を大きく左右したのは、キリスト教徒の騎士がより軽装備であったイスラーム教徒の騎兵よりもはるかに優れた鎧を装着していた点である。
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