カスティーリャに対するナスル朝とマリーン朝の戦争とは? わかりやすく解説

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カスティーリャに対するナスル朝とマリーン朝の戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 10:43 UTC 版)

ユースフ1世 (ナスル朝)」の記事における「カスティーリャに対するナスル朝とマリーン朝の戦争」の解説

条約失効した後の1339年春にマリーン朝カスティーリャ田園地方襲撃したことで戦争行為再開されその結果としてカスティーリャ二つイスラーム教国の間で対立始まったナスル朝アルカンタラ騎士団総長であるゴンサロ・マルティネスが率いカスティーリャ軍による侵攻を受け、ロクビン(英語版)、アルカラ・デ・ベンサイデ、およびプリエゴ(英語版)が襲撃された。これに対してユースフ1世は8,000人の軍勢率いてシレス(英語版)を包囲したが、サンティアゴ騎士団総長のアルフォンソ・メンデス・デ・グスマンが率い軍勢によって包囲解除余儀なくされた。その後キリスト教徒側ではマルティネスとデ・グスマンの間で個人的な対立起こりマルティネスユースフ1世の下へ逃亡試みた考えられているものの、すぐにカスティーリャ軍に捕らえられ裏切り者として絞首刑処された上に遺体焼却された。その一方でマリーン朝スルターンアブル=ハサン・アリーの息子イベリア半島軍司令官であるアブー・マーリク・アブドゥルワーヒド(英語版)がカスティーリャ辺境地帯荒らし回ったが、マリーン朝軍隊ヘレスカスティーリャ軍に打ち破られ、アブドゥルワーヒドは1339年10月20日カスティーリャ軍との戦いの中で死亡した。同じ頃にナスル朝軍隊はカルカブエイ(英語版)を征服するなど軍事的な成功収めていた。 1339年秋にホフレ・ヒジャベルトの率いアラゴン艦隊アルヘシラス付近上陸試みたものの、艦隊撃退され、ヒジャベルトは戦死した1340年4月8日にはアルヘシラス沖でアルフォンソ・ホフレ・テノーリオ(英語版)が率いカスティーリャ艦隊と、カスティーリャ側より大規模であったムハンマド・アル=アザフィーが率いマリーン朝ナスル朝艦隊の間で大規模な戦闘発生しイスラーム教徒側が勝利するとともにテノーリオが戦死するという結果終わったイスラーム教徒艦隊44隻のカスティーリャ艦隊のうち28隻のガレー船と7隻のキャラック船捕獲したアブル=ハサン・アリーはこの海戦勝利をカスティーリャ征服前兆みなした。そして妻たちを含むすべての廷臣包囲攻撃用の兵器とともに軍隊率いてジブラルタル海峡渡った8月4日アルヘシラス上陸したアブル=ハサン・アリーはユースフ1世合流し9月23日海峡沿いのカスティーリャ港湾都市であるタリファ包囲したアルフォンソ11世同盟者ポルトガル王アフォンソ4世在位1325年 - 1357年)が率いポルトガル軍合流しタリファ救援向かったアルフォンソ11世アフォンソ4世10月29日タリファから8キロメートル地点到着しユースフ1世アブル=ハサン・アリーは両者迎え撃つために移動したアルフォンソ11世は8,000人の騎兵12,000人の歩兵、そして規模不明な都市民兵組織指揮しアフォンソ4世は1,000人の軍勢率いていた。一方イスラーム教徒側の軍勢の規模ははっきりとしていない同時代キリスト教徒による史料騎兵53,000人、歩兵600,000人と誇張され数字残しているが、現代の歴史家であるアンブロシオ・ウイシ・ミランダは、ナスル朝軍が7,000人、マリーン朝軍が60,000であった1956年推定している。しかし、戦いの結果大きく左右したのは、キリスト教徒騎士がより軽装であったイスラーム教徒騎兵よりもはるかに優れた鎧を装着していた点である。

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