カスティーリャに対するマリーン朝の遠征とは? わかりやすく解説

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カスティーリャに対するマリーン朝の遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 01:04 UTC 版)

ムハンマド2世 (ナスル朝)」の記事における「カスティーリャに対するマリーン朝の遠征」の解説

アルフォンソ10世に失望したムハンマド2世アブー・ユースフ・ヤアクーブ在位1259年 - 1286年)が統治するマリーン朝支援求めた一方でアルフォンソ10世はローマ教皇グレゴリウス10世在位1271年 - 1276年)と会うために国を不在にし、その間国内王太子摂政フェルナンド・デ・ラ・セルダ残したムハンマド2世使節マリーン朝宮廷へ派遣したアブー・ユースフ1245年以来イベリア半島キリスト教徒と戦うことに関心示していたが、今やかつてのムワッヒド朝首都であるマラケシュ支配権獲得しモロッコ大部分統一していたためにこの関心実行に移すだけの力と機会有していた。1275年4月アブー・ユースフ息子のアブー・ザイヤーン・マンディールの指揮の下で5,000人の騎兵を含む軍隊動員した。3か月後にアブー・ザイヤーンはジブラルタル海峡渡りタリファ上陸して都市占領したその後すぐにアルヘシラス総督ナスル朝から離反し都市をアブー・ザイヤーンに譲り渡した。アブー・ザイヤーンはタリファアルヘシラスの間に海岸堡築きヘレスに至るまでのカスティーリャ領土への襲撃開始した。同じ頃の1275年6月ムハンマド2世マラガのアシュキールーラ家を攻撃した撃退された。一方でフェルナンド・デ・ラ・セルダイスラーム教徒軍隊対決するために進軍したものの、1275年7月25日シウダー・レアル死去しカスティーリャ指導力不安定な態となった。 海岸堡築かれカスティーリャ領内敵情把握進んだことを受けてアブー・ユースフ自身近衛部隊大臣役人、そして北アフリカ宗教指導者を含むより多く部隊送り込んだアブー・ユースフ自身1275年8月17日イベリア半島渡ったその後アブー・ユースフ軍隊引き連れてアブー・ユースフの下に加わっていたアシュキールーラ家の指導者のアブー・ムハンマドとナスル朝ムハンマド2世両者面会したマリーン朝ナスル朝とアシュキールーラ家を対等に扱いムハンマド2世反抗的な存在対等であると見なされたことに気分害して3日後に軍を去った。しかし、ナスル朝部隊そのまま現地に留まった。1275年9月イスラーム教徒軍隊エシハ戦い英語版)でカスティーリャ軍に大勝収めた。そしてアルフォンソ10世と和解しカスティーリャ側で戦っていたヌーニョ・ゴンサレスが戦死したマリーン朝年代記によれば、アシュキールーラ家はこの勝利大きく貢献し、その指導者たちが参戦していたが、ナスル朝部隊はほとんど貢献せず、ムハンマド2世自身グラナダに留まっていた。 アブー・ザイヤーンはアルヘシラス勝利を祝い、ヌーニョ・ゴンサレスの首をグラナダ送った。これは恐らくこの種の慈悲のない行為忌み嫌い、かつての同盟者尊重する助力さえしていた可能性もあるムハンマド2世不快にさせた。ムハンマド2世は首を麝香樟脳防腐処理し、胴体とともに丁重に納棺してカスティーリャ送ったマリーン朝史料はこれを「(アルフォンソの)友情得ようとする」ムハンマド2世試みとして描写している。この時点マリーン朝はアシュキールーラ家とより友好的な関係を築きムハンマド2世に対してはあまり同情を示さなくなった誰がに対して神に悔い改め預言者規範従い導かれた者と共に在りたい望んでいますか?誰がムハンマド信仰を救うために強い決意魂の浄化望んでいますか? それとも神が決し崇拝されることのない敵の地の住民たちを得意にさせますか? そしてあなたはイスラーム教徒の地に恥辱与えますか? 三位一体信じる者や唯一の神の信者たちを迫害する者による侮辱に耐えますか? この地のモスク教会になってしまった! 悲しみ打ち砕かれ無関心になってはなりません! ミナレットの上には司祭と鐘、モスクにはワイン豚肉! ああ! 頭を垂れ(ルクーゥ(英語版))、起き上がり、そして平伏すサジダ敬虔な人々祈りはもはや聞こえません。 代わりに人生真の信仰告白することは決してない、傲慢さ満ち堕落した者たちの群れ見えますマリーン朝スルターンアブー・ユースフ宛てたムハンマド2世書記官による詩の抜粋アル=アンダルス対すアブー・ユースフ継続的な支援訴えている。 その後マリーン朝タリファ沖での海戦敗れると、モロッコとの往来遮断されることを警戒していたアブー・ユースフ帰国決断した。そしてアブー・ユースフムハンマド2世、そしてカスティーリャ三者1275年12月下旬もしくは1276年1月上旬2年間の停戦合意したアブー・ユースフが去る前にムハンマド2世書記官であるアブー・ウマル・ブン・ムラービトが、カスティーリャの力に対す恐れ表現しマリーン朝による継続的な支援訴える詩を書いた枠内参照)。アブー・ユースフイベリア半島離れ1月19日にクサル・エッ=セギールに上陸したアブー・ユースフマリーン朝軍隊1277年6月イベリア半島戻った当初マリーン朝はアシュキールーラ家の協力得てムハンマド2世ナスル朝軍隊に頼ることなく軍事行動展開したマリーン朝軍は8月2日セビーリャ郊外カスティーリャ軍を打ち破りグアダルキビル川沿いのいくつかの城を占領した後、8月29日アルヘシラス撤退したアブー・ユースフ10月30日に再び進軍し今度はアルチドーナ(英語版付近ムハンマド2世加勢した。両者軍勢はベナメヒ(英語版)の城を奪いコルドバ包囲して周辺の町略奪した。そしてアルフォンソ10世か戦争影響受けた都市いずれか和平訴えムハンマド2世アブー・ユースフはこれを受け入れたアブー・ユースフ11月28日アルヘシラス撤退し1278年2月24日停戦条約締結して5月モロッコ戻ったマリーン朝戦場勝利を収めイスラーム教徒軍隊多数の町を略奪したにもかかわらず大規模な居住地占領してキリスト教徒領土恒久的に併合することには失敗したそれでもなおジブラルタル海峡面するタリファアルヘシラスの港はイベリア半島における前線基地としてマリーン朝の手残った

※この「カスティーリャに対するマリーン朝の遠征」の解説は、「ムハンマド2世 (ナスル朝)」の解説の一部です。
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