カスティーリャに対するマリーン朝の遠征
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「ムハンマド2世 (ナスル朝)」の記事における「カスティーリャに対するマリーン朝の遠征」の解説
アルフォンソ10世に失望したムハンマド2世はアブー・ユースフ・ヤアクーブ(在位:1259年 - 1286年)が統治するマリーン朝に支援を求めた。一方でアルフォンソ10世はローマ教皇グレゴリウス10世(在位:1271年 - 1276年)と会うために国を不在にし、その間国内に王太子で摂政のフェルナンド・デ・ラ・セルダを残した。ムハンマド2世は使節をマリーン朝の宮廷へ派遣した。アブー・ユースフは1245年以来イベリア半島でキリスト教徒と戦うことに関心を示していたが、今やかつてのムワッヒド朝の首都であるマラケシュの支配権を獲得し、モロッコの大部分を統一していたためにこの関心を実行に移すだけの力と機会を有していた。1275年4月にアブー・ユースフは息子のアブー・ザイヤーン・マンディールの指揮の下で5,000人の騎兵を含む軍隊を動員した。3か月後にアブー・ザイヤーンはジブラルタル海峡を渡り、タリファに上陸して都市を占領した。その後すぐにアルヘシラスの総督がナスル朝から離反し、都市をアブー・ザイヤーンに譲り渡した。アブー・ザイヤーンはタリファとアルヘシラスの間に海岸堡を築き、ヘレスに至るまでのカスティーリャの領土への襲撃を開始した。同じ頃の1275年6月にムハンマド2世はマラガのアシュキールーラ家を攻撃したが撃退された。一方でフェルナンド・デ・ラ・セルダがイスラーム教徒の軍隊と対決するために進軍したものの、1275年7月25日にシウダー・レアルで死去し、カスティーリャの指導力は不安定な状態となった。 海岸堡が築かれ、カスティーリャ領内の敵情の把握が進んだことを受けて、アブー・ユースフは自身の近衛部隊、大臣、役人、そして北アフリカの宗教指導者を含むより多くの部隊を送り込んだ。アブー・ユースフ自身は1275年8月17日にイベリア半島へ渡った。その後、アブー・ユースフは軍隊を引き連れてアブー・ユースフの下に加わっていたアシュキールーラ家の指導者のアブー・ムハンマドとナスル朝のムハンマド2世の両者に面会した。マリーン朝はナスル朝とアシュキールーラ家を対等に扱い、ムハンマド2世は反抗的な存在と対等であると見なされたことに気分を害して3日後に軍を去った。しかし、ナスル朝の部隊はそのまま現地に留まった。1275年9月にイスラーム教徒の軍隊はエシハの戦い(英語版)でカスティーリャ軍に大勝を収めた。そしてアルフォンソ10世と和解し、カスティーリャ側で戦っていたヌーニョ・ゴンサレスが戦死した。マリーン朝の年代記によれば、アシュキールーラ家はこの勝利に大きく貢献し、その指導者たちが参戦していたが、ナスル朝の部隊はほとんど貢献せず、ムハンマド2世自身はグラナダに留まっていた。 アブー・ザイヤーンはアルヘシラスで勝利を祝い、ヌーニョ・ゴンサレスの首をグラナダへ送った。これは恐らくこの種の慈悲のない行為を忌み嫌い、かつての同盟者を尊重するか助力さえしていた可能性もあるムハンマド2世を不快にさせた。ムハンマド2世は首を麝香と樟脳で防腐処理し、胴体とともに丁重に納棺してカスティーリャへ送った。マリーン朝の史料はこれを「(アルフォンソの)友情を得ようとする」ムハンマド2世の試みとして描写している。この時点でマリーン朝はアシュキールーラ家とより友好的な関係を築き、ムハンマド2世に対してはあまり同情を示さなくなった。 誰が罪に対して神に悔い改め、預言者の規範に従い、導かれた者と共に在りたいと望んでいますか?誰がムハンマドの信仰を救うために強い決意で魂の浄化を望んでいますか? それとも神が決して崇拝されることのない敵の地の住民たちを得意にさせますか? そしてあなたはイスラーム教徒の地に恥辱を与えますか? 三位一体を信じる者や唯一の神の信者たちを迫害する者による侮辱に耐えますか? この地のモスクは教会になってしまった! 悲しみを打ち砕かれ、無関心になってはなりません! ミナレットの上には司祭と鐘、モスクにはワインと豚肉! ああ! 頭を垂れ(ルクーゥ(英語版))、起き上がり、そして平伏す(サジダ)敬虔な人々の祈りはもはや聞こえません。 代わりに人生で真の信仰を告白することは決してない、傲慢さに満ち、堕落した者たちの群れが見えます。 マリーン朝のスルターンのアブー・ユースフに宛てたムハンマド2世の書記官による詩の抜粋。アル=アンダルスに対するアブー・ユースフの継続的な支援を訴えている。 その後、マリーン朝がタリファ沖での海戦に敗れると、モロッコとの往来が遮断されることを警戒していたアブー・ユースフは帰国を決断した。そしてアブー・ユースフ、ムハンマド2世、そしてカスティーリャの三者は1275年12月下旬もしくは1276年1月上旬に2年間の停戦に合意した。アブー・ユースフが去る前にムハンマド2世の書記官であるアブー・ウマル・ブン・ムラービトが、カスティーリャの力に対する恐れを表現し、マリーン朝による継続的な支援を訴える詩を書いた(枠内参照)。アブー・ユースフはイベリア半島を離れ、1月19日にクサル・エッ=セギールに上陸した。 アブー・ユースフとマリーン朝の軍隊は1277年6月にイベリア半島へ戻った。当初マリーン朝はアシュキールーラ家の協力を得てムハンマド2世とナスル朝の軍隊に頼ることなく軍事行動を展開した。マリーン朝軍は8月2日にセビーリャの郊外でカスティーリャ軍を打ち破り、グアダルキビル川沿いのいくつかの城を占領した後、8月29日にアルヘシラスへ撤退した。アブー・ユースフは10月30日に再び進軍し、今度はアルチドーナ(英語版)付近でムハンマド2世が加勢した。両者の軍勢はベナメヒ(英語版)の城を奪い、コルドバを包囲して周辺の町を略奪した。そしてアルフォンソ10世か戦争の影響を受けた都市のいずれかが和平を訴え、ムハンマド2世とアブー・ユースフはこれを受け入れた。アブー・ユースフは11月28日にアルヘシラスへ撤退し、1278年2月24日に停戦条約を締結して5月にモロッコへ戻った。マリーン朝は戦場で勝利を収め、イスラーム教徒の軍隊が多数の町を略奪したにもかかわらず、大規模な居住地を占領してキリスト教徒の領土を恒久的に併合することには失敗した。それでもなお、ジブラルタル海峡に面するタリファとアルヘシラスの港はイベリア半島における前線基地としてマリーン朝の手に残った。
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