カスティーリャとアラゴンとの和平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 10:19 UTC 版)
「ムハンマド3世 (ナスル朝)」の記事における「カスティーリャとアラゴンとの和平」の解説
即位当初、ムハンマド3世はアラゴンとマリーン朝との同盟関係を維持するとともに父親のカスティーリャに対する戦争を継続させ、カスティーリャの王位を主張するアルフォンソ・デ・ラ・セルダ(英語版)への支援も続けた。そしてワズィールのアブー・スルターン・アズィーズ・ブン・アル=ムニイム・アッ=ダーニーが率いる使節団をマリーン朝のスルターンのアブー・ヤアクーブ・ユースフ(在位:1286年 - 1307年)の下へ派遣し、当時ザイヤーン朝のトレムセンを包囲していたスルターンに包囲戦に精通したナスル朝の弓兵部隊を貸し出した。4月11日にはアラゴン王ジャウマ2世(在位:1291年 - 1327年)に書簡を送り、アラゴン王に父親の死を伝え、ジャウマ2世とアルフォンソ・デ・ラ・セルダとの友好関係を確認した。カスティーリャ方面ではムハンマド3世が即位してから二週間後にハンムー・ブン・アブドゥルハック・ブン・ラッフ(英語版)の率いるナスル朝軍がハエン近郊のベドマル(英語版)とその周辺の複数の城を占領した。ムハンマド3世はこれらの地域の征服後にベドマルのアルカイデ(英語版)(指導者)の未亡人であったマリア・ヒメネスをマリーン朝のスルターンの下へ送り、スルターンのアブー・ヤアクーブはこの女性を寵愛したと伝えられている。一方でナスル朝とカスティーリャの接近を警戒していたアラゴンはムハンマド2世が死去する二か月前に取り交わしていた休戦協定を批准するように求め、ムハンマド3世はこれを受け入れて1303年2月7日に一年間有効の休戦協定に署名した。また、同じ年にはグアディクスの総督で親族のアブル=ハッジャージュ・ブン・ナスルによる反乱に直面したものの、ムハンマド3世は速やかに反乱を鎮圧し、アブル=ハッジャージュの処刑を父方の叔父の息子たちに命じた。 その後、ムハンマド3世はカスティーリャとの和平交渉を開始した。カスティーリャは1303年に王家の高官であるフェルナンド・ゴメス・デ・トレドが率いる代表団をナスル朝に派遣し、ベドマル、アルカウデテ、およびケサーダの割譲を含むナスル朝のほぼすべての要求に応じると申し出た。一方でナスル朝が主要な目標の一つとしていたタリファの支配はカスティーリャが維持することになった。カスティーリャがナスル朝の要求を認めることと引き換えに、ムハンマド3世はフェルナンド4世の臣下となり、両国間の和平における典型的な取り決めとなっていたパリアス(英語版)(貢納金)を支払うことに同意した。この条約は1303年8月にコルドバで締結され、三年間継続されることになった。1304年8月にはアラゴンもトレージャス条約(英語版)を結んでカスティーリャとの戦争を終結させ、ナスル朝とカスティーリャの間の条約にも同意した。これによって三国間の和平が実現し、マリーン朝は孤立することになった。 これらの条約の締結によってナスル朝はカスティーリャとアラゴンとの同盟を成立させ、平和を手に入れるとともにジブラルタル海峡における優位性も手にした。しかしながら、それと同時に問題も発生した。国内ではキリスト教徒との同盟に不満を持つ者が多く、特に北アフリカからジハード(聖戦)のためにナスル朝へ渡ってきた人々で構成された軍事集団であるアル=グザート・アル=ムジャーヒディーン(英語版)の者たちが不満を抱いていた。これに対してムハンマド3世は6,000人の北アフリカ出身者からなる部隊を解散させた。一方でマリーン朝はイベリア半島の三国間の同盟が自国を孤立させていることに苛立ちを募らせていた。また、アラゴンは同盟の一員ではあったものの、カスティーリャとナスル朝の強力な関係が海峡の交通を阻害し、アラゴンの貿易に大きな打撃を与えるようになるのではないかと懸念していた。マリーン朝とこれらの一定の利害関係を共有していたジャウマ2世はマリーン朝のスルターンに使者のベルナート・デ・サリア(英語版)を派遣して同盟を視野に入れた交渉にあたらせたが、最終的に交渉は失敗に終わった。
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