アルヘシラスの包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 10:43 UTC 版)
「ユースフ1世 (ナスル朝)」の記事における「アルヘシラスの包囲」の解説
詳細は「アルヘシラス包囲戦 (1342年-1344年)(英語版)」を参照 その後、アルフォンソ11世は父親のフェルナンド4世(在位:1295年 - 1312年)が1309年から1310年にかけて包囲(英語版)したものの攻略に失敗したジブラルタル海峡の重要な港湾都市であるアルヘシラスに狙いを定めた。1342年8月上旬に都市に到着したアルフォンソ11世は徐々に陸と海から封鎖を進めていった。これに対してユースフ1世の軍隊はロンダのマリーン朝の軍隊とともに出征して包囲軍を後方から脅かし、注意を逸らそうと試みた。そして1342年11月から1343年2月にかけてエシハ周辺の土地を襲撃するとともにパルマ・デル・リオ(英語版)に侵入して略奪を行い、さらにはベナメヒを奪還してエステパ(英語版)を占領した。同年6月にユースフ1世はハージブのリドワーンをアルフォンソ11世のもとへ派遣し、包囲の解除と引き換えに金銭の支払いを申し出た。アルフォンソ11世はこの提案に対し要求額を増額することで対抗した。ユースフ1世はアブル=ハサン・アリーと協議するために北アフリカへ渡り、資金を調達したものの、マリーン朝のスルターンから提供された資金は十分なものではなかった。さらにアルフォンソ11世から通行の安全保障を得ていたにもかかわらず、ユースフ1世のガレー船が金塊を盗もうと試みたアルフォンソ11世に仕えるジェノヴァの船に襲われた。ユースフ1世の船は襲撃を撃退し、アルフォンソ11世は謝罪したものの、ジェノヴァの船の船長に対しては何の措置もとらなかった。 包囲を受けたアルヘシラスのイスラーム教徒の守備隊は大砲を使用していたが、これはヨーロッパの主要な戦いの中でこの武器が使用された最も早い時期の記録の一つであり、1346年に起こったクレシーの戦いでも使用されていたことでよく知られている。アルフォンソ11世の軍隊には当時戦争中であったフランスとイングランドを含むヨーロッパの全土から十字軍の部隊が加わっていた。ヨーロッパの王や貴族の中ではナバラ王フェリペ3世、フォワ伯(英語版)ガストン2世(英語版)、ソールズベリー伯ウィリアム・モンタキュート(英語版)、ダービー伯ヘンリー・オブ・グロスモントなどが参加していた。 ユースフ1世は1343年12月12日にパルモネス川(英語版)を渡り、カスティーリャ軍の分遣隊と交戦した。カスティーリャの史料はイスラーム教徒側がこの交戦で敗北したと記録している。1344年の初頭にアルフォンソ11世は木を鎖でつないだ海上に浮遊する障害物を作り、アルヘシラスに向かう物資を遮断した。勝利への期待が薄れ、都市が飢餓に瀕していたためにユースフ1世は再び交渉を開始した。カスティーリャの年代記によれば、ユースフ1世はハサン・アルガラファという名の使者を派遣し、住民が持ち運び可能な資産を持って都市から去ることを認めるならばアルヘシラスを降伏させ、降伏と引き換えにナスル朝、カスティーリャ、およびマリーン朝の間で15年間の和平を結ぶことを提案した。アルフォンソ11世は降伏を受け入れるよりもアルヘシラスを襲撃して住民を皆殺しにすることで都市を手に入れるように助言されたものの、敵対する軍隊が近くにいる状況では襲撃の成果が不確実であることを認識していた。結局、アルフォンソ11世はアルガラファの提案に同意したが、停戦期間を10年に縮めることを要求し、ユースフ1世はこれを受け入れた。この条約にはユースフ1世とアルフォンソ11世の他にアブル=ハサン・アリー、ペーラ4世、およびジェノヴァのドージェが参加した。ユースフ1世とアルフォンソ11世は1344年3月25日にアルヘシラス郊外のカスティーリャの陣営で条約に署名した。
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