その後のヒンドゥー教とは? わかりやすく解説

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その後のヒンドゥー教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:28 UTC 版)

ヒンドゥー教」の記事における「その後のヒンドゥー教」の解説

その後北インドではイスラム教徒征服王朝交代する時代に入る。タージ・マハルなど北インド著名な文化財イスラム教様式である。しかし庶民南インド王朝ヒンドゥー教信奉したヒンドゥー教では ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァが3大神とされた。各神は多様な側面持ち、その性格一様ではない。その中でヴィシュヌシヴァ民間宗教の神を取り込んでゆき、多様な神話通じて多く信徒有している。ヒンドゥー教複雑さ分かりにくさの一例として、たくさんの神々崇める多神教としての姿、シヴァまたはヴィシュヌ至高の神とする一神教的な姿、教理哲学的に極めた不二一元論のような神教としての姿のすべてを内在している点が挙げられるインドイギリスの植民地となって久しい19世紀に、ベンガル州を中心に知的エリート層によってキリスト教ヒンドゥー教知的交流盛んになり、西欧的な合理主義基づいてインド近代化ヒンドゥー教復興改革目指すヒンドゥー教改革運動英語版)が起こったインドの歴史個性古典文化すばらしさ説かれヒンドゥー教近代的解釈行って信仰態度確立し植民地時代インド英語版)で民衆自信勇気与え、「インド」を認識しナショナリズム盛り上げたこうした現代ヒンドゥー教改革運動担った人々は、多く上部カースト出身インド人だったが、神智学協会アニー・ベサントのような外国人もいた。 のちに「ヒンドゥー・ルネサンス」「ベンガル・ルネッサンス(英語版)」と呼ばれる改革創始者は、「近代インドの父」とも呼ばれるラーム・モーハン・ローイである。バラモン階級出身ウパニシャッド影響受けていたローイは、ユニテリアン主義影響も受け、神は超越的な存在であり聖像などで表現し得ないものと信じ宗教合理的倫理的な体系あるべきであり、道徳法は理性によって理解されるべきと考えたローイの兄の妻はサティー寡婦殉死)で死亡しており、彼はこれに大きなショック受けたと言われサティー幼児婚といったヒンドゥー教慣習非道徳な儀式として非難し1829年サティー禁止法発布影響与えたまた、聖像礼拝カルマ輪廻といった概念迷信として、キリスト教改革運動モデルとしたブラフモ・サマージ(ブラフモ協会)という宗教団体設立したローイは訪英中に客死してしまうが、その仕事はデヴェンドラナート・タゴール(英語版)やケーシャブ・チャンドラ・セーン(英語版)に引き継がれた。プラーナタントラ否定するブラフモ・サマージ思想知識層関心集めたが、大衆レベルはまった人気無かった1875年ローイ影響受けたダヤーナンダ・サラスワティー(英語版)は、ブラフモ・サマージ内在する民族主義発展させたアーリヤ・サマージアーリヤ協会)を発足させた。アーリヤ・サマージヒンドゥー教純粋なヴェーダ形態に戻すべきと主張しヴェーダ文化振興させる活動通じてインド国民意識喚起したアーリヤ・サマージ教育面での貢献大きくインド初代首相ジャワハルラール・ネルーは、「抑圧され階級地位をあげ、女子の状態を改良し少年少女教育のためにアーリヤ・サマージ多く仕事をした」と評価している。 また、ロシア人オカルティストヘレナ・P・ブラヴァツキーらによる神智学協会は、本拠地アメリカからインド移しヒンドゥー教仏教思想取り入れて転生輪廻)やカルマ(業)を強調した神秘思想説いたインドには聖者とされた人々数多あるが、その内にはブラヴァッツキーに始まる近代神智学(接神論)の者もおり、彼らは外国人ながらインド独立運動関わり2代目会長アニー・ベサント国民会議年次大会議長になる等、インド・ナショナリズムの運動大きな影響及ぼした。なお、ヴィヴェーカーナンダは、神智学協会疑似ヒンドゥー教であるとしており、真面目な宗教運動であった疑問視する声もある。 一方でバクティ運動直接影響を受け、ローイらのように西洋式教育受けていない田舎バラモンであったラーマクリシュナは、聖典興味を持つともなく純粋なバクティ説き複雑な神学体系なしに、知性ではなく純粋な信仰捧げることで神に近づこうとした彼の信仰カーリー女神へのバクティ中核とし、タントラ的な性格を持つが、イスラム神秘主義キリスト教修行実践して様々な神を見たとされ、易々と神秘体験入り得ることで注目集め、『世界全ての宗教は神に至る道』と説いた。その神秘体験と、子供のような特異な人格多くの人を魅了し彼の影響下でブラフモ・サマージ流れとも異なヒンドゥー教改革運動生じた弟子ヴィヴェーカーナンダは、ヒンドゥー教普遍宗教であると主張して各々宗教寛容強調し神性本質各個人の内にあり、ヒンドゥー教実践通じて理解できる主張し宗教統一理論をもとにヒンドゥー教再構築した。ヴィヴェーカーナンダは、1893年シカゴ開かれた万国宗教会議英語版)に参加してヒンドゥー教世界宗教ひとつとして認めさせることに貢献し1895年にはラーマクリシュナ僧院ラーマクリシュナ・ミッション創設し世界アドヴァイタ・ヴェーダーンタ不二一元論)を根幹とするネオ・ヴェーダーンタ(英語版)を布教し、インド内で社会奉仕活動行った

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