その後のバーブ教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 03:08 UTC 版)
大弾圧によりバーブ教徒の中心はオスマン帝国領バグダードへ追放され、オスマン帝国によってさらに各地へ移され、国内のバーブ教は壊滅状態に陥った。このときイランを離れたバーブ教徒に、ガージャール朝貴族でのちにバハイ教をおこすバハーウッラーと、ソブヘ・アザリー(英語版)の兄弟もいた。バハーウッラーらがバハイ教へと発展する一方、アザリーを中心としてバーブ教の教義を守る人びとも出てくる。彼らがアザリー派(英語版)である。 そもそもはアザリーがバーブの後継者とされていたが、アザリーが従来の政治的行動主義を維持しようとするのに対し、バハーウッラーらは政治的活動主義から離れ内向的宗教生活を重視して分裂した。この政治的活動主義から、イラン立憲革命期にいたる著名なイランの自由主義者・立憲主義者には、バーブ教と関わりがある疑われる人びとが少なくない。政治的な弾圧が徹底するほどイランにおけるアザリー派はシーア派伝統のタキーヤにのっとり表向き十二イマーム派信徒として振る舞うことを余儀なくされ、活発な活動は影をひそめてゆく。現在バーブ教徒を名乗るのは、このアザリー派の人びとである。 バーブ教はその後も禁圧を受け、イスラーム革命後のイランでも違法となっているが、今もイランを中心に1000-2000人の信者がいるとされる。イラン政府によるバーブ教への対応は国際社会から人権問題として指弾されたこともある。また海外のイラン人コミュニティでもバーブ教コミュニティがある。
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