その後のハドソン湾会社と英仏競合
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「フォートオールバニの戦い (1709年)」の記事における「その後のハドソン湾会社と英仏競合」の解説
この年、ハドソン湾会社はフォートオールバニに船を寄越しておらず、ロンドンにいる会社の役員たちは、意外な方法でこの戦いのことを知った。同じ1709年に、ヌーベルフランスへ探検隊を率いたものの、途中で挫折したイギリス領総督フランシス・ニコルソンが、翌年の遠征への支援を得るために、モヒカン族の族長を1人と、カウグナガワ・モホーク族の族長を3人ロンドンに派遣していたが 、彼らは、ニコルソン総督の探検隊が戻る時にモントリオールにいて、この戦いについて知らされ、そのことを本社の役員に報告したのである。フラーティンはこの戦いについて、1711年に、イギリス本国へ戻った時に報告書を整理したが、その書類は紛失してしまったようである。 ヴォードルイユ総督は、フォートオールバニへの奇襲隊に資金を提供したことで、フランス本国の政府から総督としての責任を問われた 。ハドソン湾会社は、1713年のユトレヒト条約により、すべての交易所を復活させ、イギリスのハドソン湾領有をフランスに認めさせたが、フランスとイギリスは、その後も交易をめぐって競り合うことになる。
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