その後のハンガリー代表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 19:25 UTC 版)
「サッカーハンガリー代表」の記事における「その後のハンガリー代表」の解説
ハンガリー動乱による選手の大量流出は同国のサッカーを徐々に後退させる結果となった。 当時の規定でアマチュア選手のみが出場でき、西側のプロ選手が参加できないオリンピックでは1964年東京大会、1968年メキシコシティ大会と連覇を果たすが、プロ、アマに関係なく出場できるワールドカップでは1962、1966年のベスト8が最高で、54年大会の成績を上回る記録を残せていない。政府の政策もあり、実力のある選手が生まれにくくなり、さらに1950年代の栄光が忘れられず個人技重視のスタイルに固執した結果、ワールドカップでは勝てなくなった。その為、1970年代半ばから改革に着手した。 1982 FIFAワールドカップではグループリーグのエルサルバドル戦に10-1のスコアで大勝、「チーム1試合最多得点」のワールドカップレコード「10点」を叩き出したが、アルゼンチンに完敗を喫しベルギーに引き分けたため、グループリーグ敗退に終わった。1986 FIFAワールドカップ出場を最後に2022 FIFAワールドカップまで9大会連続で欧州地区予選での敗退が続いている。 欧州選手権は1964年の3位が最高成績で1976年以降は予選敗退が続いたが、2016年大会は11大会ぶりに予選を突破し、本大会ではグループリーグを突破しラウンドオブ16まで進出した。
※この「その後のハンガリー代表」の解説は、「サッカーハンガリー代表」の解説の一部です。
「その後のハンガリー代表」を含む「サッカーハンガリー代表」の記事については、「サッカーハンガリー代表」の概要を参照ください。
- その後のハンガリー代表のページへのリンク