その後のピトケアン諸島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 06:44 UTC 版)
「バウンティ号の反乱」の記事における「その後のピトケアン諸島」の解説
1808年1月にアメリカ船トパーズ号がピトケアン諸島にやってきた時、バウンティ号の乗組員は水夫ジョン・アダムスのみが唯一生き残っていた。トパーズ号のメイヒュー・フォルジャー船長はクリスチャンの息子サースディ・オクトバー・クリスチャンの案内で、アダムスのほかに子供二十数名、ポリネシア人女性10名がピトケアン島で暮らしていることを知った。その他の反乱者はタヒチ人との衝突で大半が相打ちとなり、数少ない生存者も病気、自殺、喧嘩などにより既に死亡し、生き残ったのはアダムスと女性や子供だけであった。クリスチャンも衝突で殺されたと言われている(アダムスは恩赦となり、1829年に島で死亡した)。 1838年、ピトケアン諸島はイギリス領となって、現在まで続いている。バウンティ号が解体された場所はバウンティ湾と名づけられ、現在でもその残骸が残っている。1831年に300人近くの人口に増えるが小さな島で食料や土地問題を抱えたのでイギリス政府は一時、島民をタヒチ島に移住させた。しかし、慣れないタヒチ島での生活にピトケアン島に戻りたいという者がほとんどであり、島民は再び故郷のピトケアン島に戻った。 しかし、その後、島民はジョシュア・ヒルというアメリカ生まれの成り上がりのよそ者に苦しめられることになる。ヒルはマウイ島に移住しようとしたとき、移住をマウイ島の知事に断られた。その後、タヒチ島に渡り、ピトケアン島のことを知った。彼はイギリス政府によって派遣された要人だと嘘をつき、ピトケアン島に渡って島を統治しようとしていた。独裁的な支配者気取りであるヒルの専制政治に異を唱えていた1823年からピトケアン島で教師活動をしていたジョン・バフェットと19歳のジョン・エヴァンス、そして1828年から島で宣教活動をしていた牧師のジョージ・フン・ノブスの3人のイギリス人に対して鞭打ちの刑を科したりした。さらに島民に対しても自身のやり方に逆らう者を鞭打ちにしたりしていた。島民が、通りすがりのイギリス船に、自分たちを暴君ヒルから解放してほしいと訴えていた。1837年に島から追放されるまでの6年間、ヒルはピトケアン島に居続けた。 1856年に再び島民は島での人口増加の問題で、194人余りがイギリス政府により、無人島だったノーフォーク島に移住した。ピトケアン島より大きく住みやすかったので、ノーフォーク島にとどまる者も大勢いたが、何人かはピトケアン島への帰還を求め島に戻った。 1937年にはバウンティ号の船員とタヒチ人の子孫233人が住んでいたが、その後、ニュージーランド、ノーフォーク島等に移民し、現在は47人しか残っていない。ピトケアン島の前村長、スティーブ・クリスチャンはフレッチャー・クリスチャンの子孫である。 2004年9月に女児に対する性的虐待の容疑で7人の島民が起訴されるピトケアン諸島少女性的暴行事件で再び注目を集めた。
※この「その後のピトケアン諸島」の解説は、「バウンティ号の反乱」の解説の一部です。
「その後のピトケアン諸島」を含む「バウンティ号の反乱」の記事については、「バウンティ号の反乱」の概要を参照ください。
- その後のピトケアン諸島のページへのリンク