その他の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:42 UTC 版)
ウォーターマンが1991年に明らかにしたように、多くの歴史家たちはこの反乱を、イングランドの支配に対するオランダの反感であったととらえている。しかし、ライスラーはオランダ改革派教会の支援の取り込みには失敗している。彼は、ドイツ人の改革派の牧師の息子であり、大衆受けするアンチ=カトリシズムを利用して、裕福な大商人より、小規模の商人や職人たちに支持された。彼の支持者は自分自身を、イングランド化に抗議する真のオランダ改革派の後継者と見ていた 。 17世紀後期には、植民地各地で対立が起こり、紛争を招いた。1676年にはヴァージニア植民地でベイコンの反乱が起こった。これは、インディアンとの領地をめぐる確執から、幅広い支持層を持つナサニエル・ベイコンが、総督の意思に反してインディアンを掃討し、一旦両者は和解したものの、再び対立するようになったものである。これでベイコンは、実質ヴァージニアの支配権を得るものの、彼の病死によりことは収束した。この反乱により、植民地の不満が表面化した。他にも、メリーランド植民地では、ニューヨーク同様に、植民地版名誉革命と言うべきものが起こった。権力側のカトリックと小規模農民側のプロテスタントとの対立があり、ジェームズ2世の退位と共に、小規模なプランテーション経営者、ジョン・クッドがカトリックの総督を追放し、プロテスタントの新国王に、メリーランド王領化を要請するにいたった。
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