バクティ運動
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「ヒンドゥー・ナショナリズム」の記事における「バクティ運動」の解説
ヒンドゥー教では、解脱へ三つの道を説いており、それは知識(ジャニャーナ)の道、宗教的義務を遂行する行為(カルマ)の道、そして信愛(バクティ)である。バクティとは、もともと夫と妻のような、契約や約束によらない人間同士の信愛を示した言葉であり、これを神との関係にまで拡大し、最高神に帰依すれば最高神の恩寵によって救われるとしたのがバクティ運動である。7世紀頃に南インドから始まり、インド全土にひろまったバクティ運動は、伝統的な宗教儀式を無視し、カースト制度にも無関心なためにバラモン階級を悩ませ、そのため長い間バラモンに反対されていたことは疑いない。後代にはバクティ運動自体がより正統的なものになり、ヒンドゥー教の主流となった。 デリー・スルターン朝によって北インドのイスラーム化が進むにつれ、南インドのヴィジャヤナガル王国は隣接するイスラーム王朝・ビジャープル王国などとも闘いながら、ヒンドゥー教意識を強めていった。 ムガル帝国の下ではアクバルが宗教に対して寛容な政策を採ったこともあったが、アウラングゼーブのヒンドゥー教はじめ他宗教への厳しい弾圧政策がかえって反発を呼び、シヴァージーによるヒンドゥー教徒のマラーター王国建国やラージプートの抵抗などを招き、のちに彼らは衰退していくムガル帝国よりも新たな征服者であるイギリスに対抗するようになっていく。
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バクティ運動
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5世紀前後に発展したヴィシュヌに関わる様々なアイデアは12世紀以降にインド全土で優勢となるバクティ運動(英語版)(バクティ参照)において重要な意味を持つ。5世紀から10世紀にかけてアールワール(英語版)と呼ばれるタミル・ヴィシュヌ派の詩人たちが活躍し、彼らはヴィシュヌを称える歌を歌いながら各地を巡った。彼らはシュリーランガムをはじめとする寺院サイト(巡礼地)の形成に関わり、ヴィシュヌ派の思想を広めた。ディヴィヤ・プラバンダ(英語版)にまとめられた彼らの詩はその後ヴィシュヌ派の重要な聖典へと発展する。『バーガヴァタ・プラーナ』ではバクティ思想を強調する一方でアールワールへの言及が見られ、これらはバクティ思想が南インドに起原を持つとする学説の根拠となっている。ただしこの論拠はバクティ思想が南と北で同時発生した可能性を否定しきれないという指摘も存在する。
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